伝えたいこと Ver. 2 "sincerity to science" その8

http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120312/p1 の続き

依然として、先生とあたしは掘りごたつに入って向かい合っている。


そういえば、先生がスーツを着ていることはほとんどみたことがない。夏場はTシャツにジーンズとかだし、冬場は青灰色の作業着を着ているのを多く見かける。基本的に動きやすく、汚れても良い服が好きみたいだ。髪型とかも気にしていないように見える。とっても短め。「もう少しお洒落に気を遣っても・・・」とは、あたしは考えない。教育者にとって外見が大事とは想定はできる。でも、この先生はこの先生なりの方法論でやってきたわけだし、別にこのままでも不具合はないじゃないか。


「いくつかの事に気をつければ、今よりかは外見的に魅力的になるだろうな」とも想定できる。でも、そういう指摘をするのって、あたしとしては苦手。配偶者、友達、同僚等に言われているようなことかもしれないし。そういうことを、指摘するような・指摘できるような、関係ではない、とも言える。


その種の「助言・指摘・質問」することによって、あたしが測られるという側面もある。例えば「どんな質問するか」が、その人の価値観(の一部)を示す。


血液型を聞かれて答えたら、「あなたはこんな性格だね〜」と言われたらげんなりする。血液型性格診断からの自衛のために、血液型は秘密にしている。輸血や献血のためには秘密にはしないけど。血液型性格診断はいいかげんに止めて欲しい。止めて欲しい。止めて欲しい。


「質問内容により測られる」という話だっけ。安易な「助言・提言・指摘」をすることにより、先生が持つあたしのイメージが変化するはず。今後の事を考えて、あんまりプラスにならないと判断した。あたしだって、そういう計算くらいする。そういう計算ができない人がたまにいて、とっても素直に自分の事を出しているように見えて、時に眩しく羨ましく嫉ましく微笑ましい。


だいぶ脱線した。まとめると・・・。ようするに億劫と言う事だ。


先生は話を続けているようだ。
「results(結果)に関してはなかなか珍しい結果だし、オープンにしても良いと思う。書き方が一人よがりで、他人の視線を完全に無視しているのが問題。でも、見る人がみれば面白い結果だとわかると思うよ。まあ、グラフや概念図をうまくキャッチーに見せる工夫が必要かな」
と先生が言う。


先生と話していて、ずっとモヤモヤしたものがあった。それは何だろう?と考えてた。あたしは・・・、あたしのまとめたレポートが、あたしなりに面白い。「身近な人に見せる価値くらいはあるかな?」って思えるくらい面白い。こういうことはあまりない。でも、これってさらに多くの人に見せる価値があるのだろうか? わざわざ面倒なことまでして? 前提条件や背景となる情報を知らない人に、面白さを伝えるって、けっこう大変なことだと思う。かなり大変だ。絶望的に大変だ、と言うと言い過ぎかもしれないが。「何かを伝えること」・・・、それは何かの見返りがなくてはやっていられないことだ。


先生は、「面白い」と言ってくれているし、それは「それなり(?!)」に嬉しいこと。でも、先生は、なんでこれをきちんとした論文として出したいのだろう? それが仕事だから? 業績になるから? 自分達だけで楽しいだけでは駄目なのだろうか? 今回の件に関しては、別に国の税金を使った研究じゃない。もちろん、あたしは学生だから、大学院に所属している意味では、公的な援助を受けているとも言えるけど。


これを公にする事に価値があるの? その基準はなんだろう? それが、あたしは先行研究とされるものを知らないことによるものだろうか? 価値があるってどういうことだろう? そんなことを、先生の話を聞くのと同時に考えていた。


それはそれとして。「resultsに書くべき事は何ですか?」などと質問する。

「resultsで書くべき事・・・。分かったことを全部載っければ良いってわけじゃない。誌面ばかりとって無意味。読む人が困るような事をしては駄目。自分の主張との関連性を見きわめ、重要なデータだけを提示すれば良い。質・精度等を吟味する。読者に正確な描像を与えるために必要なものを取捨選択する必要がある」
と答えてくれた。


正しいような気がする。でも、ちょっと難癖をつけてみよう(=質問してみよう)。「質問すること・質問の質」が、相手にあたしの理解度を伝える。
「でも、それだと恣意的になる可能性があるのではないですか」


「確かに、恣意的な面はあるね。でも、なんでもありってわけじゃない。あなたの研究全体の枠組みの中で逸脱するようなデータをとってくることはできない。そして、いままでの先行研究との結果とも、ある程度整合的ではないと受け入れられない。それは、それぞれの研究分野における方法論、哲学、そして美的センスなども関係してくる。この点に関しては、ある程度研究を続けていればわかってくるよ」
と先生は、机の上にある紙に落書きしながら答えた。
たぶん、うさぎの絵を描いているのだと思う。・・・自分で言っていて自信がない。あひるかもしれない。残念ながら(実際の所どうでもいいが)、先生には絵心がないと思う。


絵のことはどうでもいい。
「それは、「使いこなせるようになる」って事ですか?」とあたしは尋ねる。


「まあ、新規でそこそこ正当な論文をかける程度にはなる」と先生。
あたしは
「えっと? それはどういうことですか」
という感じで考え無しの質問を続ける。正直よく分からなかったし。きちんとした論文を書いたことがないのだから、わからないのも仕方がないだろう。


「どこまでが主観でどこまで客観かの線引きは難しい。そして、多くの人は、方法論・哲学・美的センスの背景には無自覚。現在正しいとされる考えが、何故正しいのかに対して無頓着。そして、それで良い。自転車が何故倒れないで進むことができるのかの原理を知らなくても、自転車に乗ることはできるね」
こういう比喩は面白いと思う。


いいかげんな質問が続いたのであたしなりに咀嚼して答えるべきと思って、
「自転車が倒れない原理を知っているよりも、自転車に乗ることができる方が、一般的な人にとっては幸せかもしれないですね」
という感じで答える。やっぱり駄目かもしれない。


「意味を考えるのは体が慣れた後でもいいと思うよ。ある程度研究を続けてから、あらためて研究における方法論や哲学や美について考えてみると良い。実例を知らないで、理論ばかり考えても多くの場合は不毛だよ」と先生。

「それは分かる気がします。でも・・・」と言いながら、あたしは「ちょっと納得がいかない」ような顔をする。そういう思いを込めた表情をしたつもりでも良い。


「背景知識や常識とされているものに対して、疑問を持ち、筋の良い問いかけをする事ができ、そしてそれが解けた場合に、ブレークスルーが起きる。良い疑問を持つことができるのが、すばらしい研究者であり科学者だよ」
と先生が言った。


「どうすれば良い疑問を持てるのでしょう?」と、安易にあたしは尋ねる。


先生は、「その問題は難しいんだよ」という表情でこう答えた。

「それは・・・、分からない。常識を成立させている条件をきちんと吟味する。『理論と実験』『理論と理論』これらの間に整合的ではない異常があることがある。そこについて深く検討するなどがあるかな。偶然そういうものと出会うと言う事も多い。その機会をできるだけ拾うための方法論の一つが、今の学術の体制だと思う。学術の体制は、国によっても違うし、時代とともに変化する。どれが最良かわからない」


このような話題は、科学の哲学とか科学の方法論に関わることなのかもしれない。限定された誰にでもできる手続きで、白黒つけることができるものも科学の一部だと思う。でも、判断する際に、多くの前提条件が必要な物は簡単に白黒つけることができない。「現在知りうる情報の範囲内では、これこれがもっともらしい」というのも科学の一部だと思える。価値基準の共有が難しいと価値判断が困難になり、それゆえ哲学的論争を引き起こすこともあるだろう。


「多くの有象無象のデータから、どのデータを信頼できる物と見なし採用するべきか?」という問いは科学の分野でいつでもあったのではないだろうか。


何故かダーウィンの進化論を思い出した。ダーウィンがビーグル号でガラパゴス島に行った。世界中を巡ったわけではない。そこで得た知見が、進化論の補強になった。良い具体例が、理論の進展に大きく寄与すると言う事はあるらしい。何でもかんでも取り込んで全部をまんべんなく考えるよりも、適切な具体例を見出し深く考察することが大事なのかもしれない。

ある人が、「どういうパターン認識の仕方をするか?」「ある対象からどの情報を抽出するか?」は、環境で決まるのかも知れないし、先天的資質で決まるかもしれないし、両方が複雑に絡み合っているのかもしれない。パターン認識・抽出能力は、人の特質・個性の一つだろう。


理論が進めばデータを見る目も変わる。理論を知っているから、エラーデータか信頼がおけるデータかを判断できることもあるだろう。より信頼できるデータが集まれば、理論も変更しなくてはいけないことがある。理論とデータは互いに強く結びついている物だと思う。


「恣意的かどうか」の話が出てきたときに、あたしはミリカンによる油滴の実験についての逸話を思い出していた。電子の電荷の大きさ(電気素量、素電荷、elementary electric charge)を求める実験だ。電子の比電荷(電子の質量と素電荷の比率の事、e/m)は高校の物理を習った人なら、どうすればその値を求められるかはわかると思う。でも、素電荷の求め方は、比電荷の求め方に比べて、いろいろテクニカルでマニアックな要素を持っているように思う。素人考えだけど。


電荷の正確な値は20世紀初頭ではまだ分かっていなかったのはなんだか驚きだ。物理量としてとっても基本的な量だし。


ミリカンは油滴実験の結果を丁寧に論文に書いた。何らかの条件でうまく測定できなかった結果についても書いた。要するにやったことを網羅的に書いた。そしてそれは信頼がおけないと正直に書いた。そのために煩わしく本質的ではない論争に巻き込まれてしまったらしい。明らかにあわないデータを省くということをしなかった。理由が分からないけど実験データが変な値になるなんてよくあること。それがおかしいことは分かっても、その理由をきちんと詰められないことは多々だ。


計測したデータを、考えなしにそのまま出す事が誠実だとは言えないと思う。読者が混乱してしまうことがある。ある種の抽出は必要だ。「この測定データは捨てて良くて、この測定データは捨ててはいけない」という基準。それはどのように決まるのだろうか?取捨選択のアルゴリズムが人の頭の中にあることは確かだ。それは経験とか直観とか言われるかもしれない。経験や美的センスと名付けられたものを由来に、「なんとなく大丈夫」とか「なんとなく駄目」とかが分かるのだと思う。「なんとなく」かあ。「なんとなく」というのは、現時点ではコンピューターには任せられないこと、となんとなく思った。

「その9」 http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120317/p1 へ続く。