教える人

27歳未満は読まないでね。

他者から過剰に搾取して生きる術も、
他者とバランスの良い交換をして生きる術も
根源では一緒です。


私は「他者から過剰に搾取しないで欲しい」と言う
私の気持ち・願いを私の教え子にに伝えはしますが、
それに従うかどうかは、彼・彼女ら次第なのです。


それは、それぞれの人が選択すべき事なのです。
私は、知識を授ける事を以て、糧を得る者です。
私から知識を学んだ者が、
その知識を如何に使うかについては、
ほとんどが私の与り知らぬ事になるのは当然のことです。


理論や限界や適用条件を正しく伝えようと努力はします。
でも、知識や理論は、現実世界で使いながら、
自らの血肉にしていくものでもあります。


そういう意味で、
せいぜい彼・彼女らにきっかけを与えたり、
方向性を示唆する程度の役割しか
私は持っていないのだと自覚しています。


もしかしたら、教え子達の何人かが、
私が伝えた知識を使い、
法律は破らなくても
道徳的・倫理的・道義的に
好ましくない行いをする事があるかもしれませんね。


そのような行いをして欲しくないとは思います。
ですが、構成員がお互いに気を配ることで平衡を保つ社会も
構成員がお互いに搾取し合うことで平衡を保つ社会も、
私にとっては等価です。


少なくとも、
私の教えたことを、ある程度理解した者達であれば、
私が教えた程度の内容を用いては騙されない程度に強いはずです。


さらに、洗練された搾取の手法に対して
抗うことができるかどうかはわかりません。
それは、彼・彼女らの特質や努力などに関わるでしょうね。


過去の知識を知り、
新しい知識を創り出し、
新しい知識を伝えることが、
私の生きるための手段です。


この知識の重要性や有効性を主張することは、
私が生きるために必要なことでしょう。
知識の重要性があるから、
私はそれを以て稼ぐことができるのです。
私の政治的な価値観とは、それは別個なのです。


教育職は聖職であるというような考え方をするのは嫌です。
人間的に尊敬できる先生方がいることは知っています。
でも、聖職ということを
全ての先生に当てはめようとするのはおかしいのです。


むしろ、普通の社会と同様に、
尊敬できる人もいれば、尊敬できない人もいる、
というのが普通でしょう。


ただ、生きるための糧を、
教えることを以て得ている人達には、
それなりの教育能力が求められるでしょう。
学ぶ側に、学んでいる内容の価値がないと思われしまったら、
稼ぐことはできないのですからね。