伝えたいこと Ver. 2 "sincerity to science" その7

http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120311/p1 の続き

先生はあたしの方を見ながら、「今いる場所から、どんな種類の地図を思いつく?」って尋ねた。


あたしは即興で思いついた地図(?)を言ってみる。
「えっと、どんなのがありますかね。お店の名前が書いてある地図、高さが把握できる地図、植生が書いてある地図、自治体や国の境が書いてある地図もありますね。水だけ取り出しても面白いですね、気体の水、液体の水、固体の水。今は山にいて、沢を流れている水や葉っぱについている水、霧などが気になりますけど、地下にも水脈はあるはずです。時間で変わりますけど、風のながれとか太陽の光の当たり具合でも地図が作れますね。気圧、湿度や温度の地図も作れます。天候を知る図は、ハイキングの時は大事ですね。X-bandの電磁波を空に向けて発してその反射を見ることで、いつ・どのくらい雨が降るかをある程度予想できると聞いたことがあります。動物の現在位置や獣道などの地図も作れます。鉱物が好きな人は鉱物分布とかを知りたいと思うかもしれません」


「時間変化、空間変化するもの。スカラーデータ、ベクトルデータ。精密なもの、過度にデフォルメしたもの。他にもたくさん地図がある。いろいろな地図を知っていると言う事は、いろいろな視点からものを見れると言う事。"客観性とは何か?"と言われると難しい問題だけど、"いろいろな地図を読み解くことができる"というのは一つの切り口かもしれない。地図がたくさんあれば、いろいろなことを予測できる。いろいろなことを制御できる」
と先生が言う。


先生は続ける。
「地図に実際に存在するものを全部詰め込むことはできない。一つの地図は、調べたいあるものに対して有効であることが望まれる。地図は道具の一つで、それぞれの地図で有効範囲が異なる。物理学の素養がある人向けに言うなら、ニュートンの力学の有効範囲、アインシュタインの特殊相対論とかが思い起こされるだろうね。ある条件下で、ニュートン力学は十分に正しいって言える。でも、光の速度に近くなると有効性が言えなくなる」
先生はこのとき、電磁気学統計力学量子力学の例についても触れていたけどそれは長くなるので省く。


「理論がどの範囲で有効でどの範囲で有効でなくなるかを考えるのは大事。まっとうな科学者・研究者なら、"科学は万能"なんて言わない。むしろ、どの条件下で理論が有効であるかについてとってもsensitive(過敏、鋭敏)だよ。科学は戦うための武器というか道具だね。ある道具を使って仕事をする人は、その道具の性質についてよく知っている。できることとできないことをね」


道具としての科学という視点は先生はよく言われていたと思う。研究者であれ、技術者であれ道具については習熟しておくべきと言う意見だったと思う。「道具は人の手足の延長だ」とか「良い道具は人を鼓舞する」とか言っていた。なんか無駄なものを買う理由になっているような気もしたが、個人のお金の使い方についてはとやかく言うつもりはない。



先生は地図の話すことにのめり込んでいるようだ。まだまだ続いている。
「専門家ではない人に『科学ってどんな性質を持つの?』って聞かれたら、『地図みたいなもの』って言うのが良いと思う。地図の読み方って、大人にとっては当たり前かもしれないけど、見たことがない子供にはわからない。地図を渡されても意味がわからないと何にも役に立たない。でも、地図の読み方を知ると、とっても便利になって世界が広がる。必要な物が手に入る。会いたい人と会える。逆に言えば、地図を持たないと何をするのも大変。例えば、地図を持たずに旅行するのはなかなか辛い。そして地図を作る楽しさって言うのも分かってもらえると思う」


「地図を作る楽しさですか?」とあたしは疑問を呈する。オウム返しの疑問は考えていない証拠であると言われたこともある。でも、多くの言葉の中で、あたしが一番気にした点はここだよ、と言う事くらいは伝えられる。


先生はうんうんと頷いく。
「新しい街に引っ越して、いろいろ歩き回って、自分の頭の中に地図を作るの。面白いお店を発見した、綺麗な景色があった、近道を発見した、可愛い猫がいる、風が気持ち良い、とかとかとか。いろいろ。小さい頃、『たんけんぼくのまち』というテレビ番組が好きだった。主人公が配達のために、街を自転車で走り回って、最後に地図を作るの。体験を背景にした地図。あの地図を作っているところを見ると心がわくわくしたし、完成した物をみると自分が作ったわけでもないのに達成感があった。本当に楽しかった」
昔の事を思い出しているようで、先生はちょっと笑顔を見せた。


「科学者は、自然や、人や、人工物など、いろいろなものを研究対象にする。それは地図を読めるようになって、新しい地図を作る楽しさがあるからだと思う」
と言って、先生は立ち上がって他の人に出発すると告げた。麓には3時間後くらいに無事に戻ることができた。



別の機会に「うちの研究室は何で山に登るんですか?」と、先生に聞いたことがある。
そうしたら、こんなふうに答えてくれた。


「僕たちみたいな集まりは、物事に対する最適化欲求が強い。一番の近道はどうすればいいだろう?効率的に料理を作るにはどうすれば良いだろう?とかなんでもいいよ。とにかく手続きや情報を圧縮してしまおうと思うんだよね。そういう性(さが)がもともと強い人がここに集まってくるし、一緒にいて勉強・研究することでその性質は強化される」


「確かにそうですね」と私は相づちを入れる。先生は続ける。


「でも、少ない情報しかない時に最適化を行うと、不適切な予想や制御しかできないモデルができてしまうことがある。自分が知っている情報は限られて物であるという認識を持つための一つの方法として、乱雑で簡単には最適化できない情報がたくさんあるところ、山とかにくるのは良いかな?って思ってる。街中も十分に乱雑だけど、日常生活に慣れて当たり前の事になると、思考が働かなくなることが多い。普段は行かない別の場所に踏み込むことによって、見えてくる物って言うのがある」


「そんな理由があったんですかあ」と、ちょっと呆れ気味であたしが答えたら。


「山に登るのは疲れるけど、景色が良いし、体を動かすと気持ちいいし、お弁当も美味しく食べられしねえ」
と言った。そのときも先生はみかんを食べていたように思う。

「その8」 http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120314/p1 に続く。