教えることとか教わることとか学ぶこととか

下記は2006年11月頃考えたものです。


高校とかで、学ぶものの価値は何だろう?

もし、学ばせるなら、学ばせる側が価値があると信じるのなら、学生に「学ぶことには価値がある」って分からせないとだめだ。

全部の人が価値があると思う必要はなくて、十分多くの人たちが価値があると思っていればいい。

やっていることが、生きていくうえで役に立つ知識や思考を身につけるためだと認識しないとだめだ。後になって気がつくのでもいいのだけど。

それには、知識や考え方を、目の前にある現実と結びつける力が必要となる。

A:学校の勉強なんて何の役にたつんですか?何の価値があるんですか?何が楽しいのですか?
B:あなたは学校の勉強すら、役に立てることもできず、価値があることにも気がつかず、何が楽しいかもわからないの?

AはBの返答に対してどう思うかな?


新聞や、テレビは差分をさも重要そうに教えてくれる。でも、全体の位置づけとかについてはあんまり教えてくれない。考え方についてもあまり教えてくれない。科学的な思考についてもあまり教えてくれない。


それを教えてくれるのが、学校なのではないのかな。本を読むだけでも、新聞やテレビを読むだけでも駄目なもの。学生自身と、現実をしっかりつなぐこと。それは先生が個々の学生を知らなければできないことだ。そして、先生は、自分が教えていることがいかに現実の世界に関わりをもっているかを実感していないと伝えることはできないだろう。

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意味があるとは何か?価値があるとは何か?役に立つとは何か?面白いとは何か?
(「どういう性質を持てば、意味があると言えるか?」と言い換えても良い)


学問はマニアックな人たちのおもちゃという側面も持つ。でもそれだけではない。自由に生きるための、幸せに生きるための、迫害されないための、強く生きるための、騙されないための力。強力で、愛しく、決して裏切らず、いつも伴にあるもの。価値がある道具。道具というのは適切な表現ではないかもしれない。生きていくことは学んでいくことで、その学んだ軌跡が、自分自身を表すものなのだと思う。

アイデンティティとは何か?って難しい問題だと思う。でも、こういう切り分けをしてみよう。「何ができるか?」と「何が価値だと思うか?」だ。学ぶということは、あきらかに、これらを拡張する。(大腸菌アイデンティティとかだって考えることができる。)

学ぶっていうのは、別に特別なことじゃなくて、当たり前のことだと私は思う。

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学ぶことに優劣はあるのだろうか?思うところはありますが、気合がないと書けないかな。