『ウンコな議論』(著:ハリー・G・フランクファート、訳・解説:山形浩生)

ついでに、もう一つ書く。以下感想。

ウンコな議論

ウンコな議論

なんて言うタイトルだ。分量的に、これで1300円か、というのはある。800円くらいで文庫で出して欲しいような気もする。でも、まぁ、面白い本だと思う。翻訳や解説も凝っているし。特に、山形浩生さんの解説が面白い。

p.67

ある行動について人に道徳的責任があるとはいかなる意味か?人の自律性とはどういうものだろうか?一般には、選択肢が複数あってその中からその人物が自由に選んだ場合にのみ道徳的責任が発生すると考えられている。他に手段がなかったら、何かをやっても道徳的な責任はない。実際問題として「やむを得なかった」「他にどうしようもなかった」といった場合には、通常は処罰をまぬがれる。


p.68-69

たとえば、嘘をつくことはよくないことだと心底信じている人を考えよう。この人はどんな状況にあっても−脅迫されても金を積まれても−嘘をつくことが一切できない。嘘をつこうかつくまいか、いろいろ計算の結果として本当のことを言おうと判断するのではない。とにかくほとんど生理的に嘘がつけない。別に頭が悪いわけではない。ここは絶対に嘘をついたほうが人命が救われるとかいった状況は十分に判断できる。だが、それでも手が振るえ、舌が凍り付いて嘘がつけない。さて、この人は他に選択の余地がないから道徳的責任がないと言うべきか?テープレコーダのように、本当のことを言う以外の選択肢がない、自律性のない存在だと言えるか?

そうではない、というのがフランクファートの議論である。この人の場合、嘘がつけないこと、嘘をつくという選択肢を持たないことこそが道徳的責任の存在を示す。この人は、ある時点で嘘をつくべきではないという選択を行い、自分自身を嘘がつけない状態へと追い込んでいった。選択肢がないということ、どんな合理的な計算結果があっても、一つの選択しかとれないということ、それこそがこの人物の道徳的判断の賜物なのであり、まさにその人物が自分を律していることを示すものである。したがって複数の選択肢がなければ道徳的責任がないという考え方は間違いであり、選択肢がないことこそその人物の自律性なのである、とフランクファートは論じた。

この論理展開は、なるほど、って思った。今までなんかしっくり来なかったことがうまく説明された気がした。この論理展開に対して当然反論を思いつくとは思いますが、せめてこの前後の文章を、できれば全部この本を読んでから反論しましょう。そうすれば、深くなります。