- 作者: エリオットソーバー,三中信宏
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2010/04/15
- メディア: 単行本
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今回は「第2章 哲学からみた単純性問題」についての感想。
「2.1 局所的最節約性と大域的最節約性」
p.59
一つ目、二つ目のパラグラフで第1章の簡潔なまとめがある。(引用しないけど)
p.60
「存在論的」(ontological)と「純粋方法論的」(pure methodological)という言葉が出てきて面白い。
自然が単純なのではなく、データを同等に説明できる仮説の中で単純なのを選ぶと。自然が単純だから、単純性の基準を使うわけではない。
p.60で「大域的制約(global constraint)」という言葉がでてきて面白い。あと演繹や帰納に関しても。
p.61
非演繹的推論に対するわれわれの理解が、演繹に対する理解よりもはるかに初歩的な段階にとどまっているということなのである。
さらに、次のようにある。
分岐学的最節約法は、局所的(local)な非演繹的推論原理である
そして、分岐学的最節約法と大域的最節約法の関係か。
p.63
科学者が最節約性のもとで観察データに照らして対立仮説のなかのある仮説をより合理的であると結論するときには、自然界の現象に関する仮定が置かれていなければならない。「純粋方法論的」な最節約性は現実にはありえない。
「「純粋方法論的」な最節約性は現実にはありない」とは「機械的な手続きだけではない」という意味合いかな?
「2.2 2種類の非演繹的推論」
自然の斉一性原理(the Principle of the Uniformity of Nature)という言葉がでてくる。
p.63
局所的な時間や場所で観察できる現象は、ほかの時間や場所でも(おそらく宇宙全体にわたって)商事得るという考え方は、世界がある意味で単純であるという説である。斉一性、すなわち空間的均質性と時間的不変性の主張は、一種の単純性である。局所的な観察が大域的にあてはまるという考え方は、観察されたものから観察されないものへの単純な外挿をしているのである。
ここらへんも面白い。
p.72
オッカムの剃刀(Ockham's razor)という言葉が出てくる。「必然性がないかぎり複数の事物を立ててはならない」
p.73に仮説発見(abduction)という言葉が出てくる。
「単純性」というのは重要で、何らかの役割を果たしている。でも、それってどういうことだろう?
「2.3 存在論としての凋落」
p.74
単純性が「純粋に方法論的」であるという主張は、おそらく現在では多数派の見解となっているだろう。しかし、主流派の意見がどうであれ、それがいつも当たっているとは限らない。
この後、存在論的仮定という言葉がでてきて面白い。
p.74-75
Newtonの科学方法論は、最節約性と単純性の規範を最重要視した。以下で見るように、Newtonはそれらの原理を正当化するに当たっては、ためらうことなく自然界の構造的特性をその論拠とした。
ここらへんがとても面白いです。Newtonの『プリンキピア』の引用がたくさんあるんですが、面白いので孫引用。
p.75
1) 自然現象の説明にとって十分なだけの真の原因しか認めない。
2) それゆえ、自然界にみられる同じ結果に対しては、できるだけ同じ原因を結びつけなければならない。
3) 強調あるいは緩和をすることなく観察した対象の属性、実験で扱える範囲の全ての対象がもっている属性は、ありとあらゆる対象の普遍的属性とみなされるべきである。
4) 実験理学(experimental philosophy)では、命題は、たとえ何らかの対立仮説が想定できるとしても、正確またはほぼ真実と言える現象からの一般的帰納によって議論されるとみなす。ただし、それはその命題がさらに正確になったり例外と見なされる別の現象が観察されるまでの話である。
最初の二つが最節約性、後の二つが斉一性に係わる。
p.76〜77あたりのNewtonが考えている神については面白い。
「2.4 方法論としての批判」
p.80に無上限問題(no upper bound argument)という言葉がでてきて面白い。
存在論としては無理でも、純粋な方法論としては・・・か。でも、そんな簡単でもないみたい、というのが次の節。
(続く)