- 作者: エリオットソーバー,三中信宏
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2010/04/15
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 50回
- この商品を含むブログ (24件) を見る
「2.5 ワタリガラスのパラドックス」
p.83
すべての帰納的推論の基礎となる存在論的仮定がただひとつ存在することを示すのではなく、観察から仮説へ向かうすべての非演繹的推論は、自然界に関する現象面での仮定をかならずいくつか含んでいるというのが私の論点である。
仮定について、多くの人は無意識であるというのはあるかも。
Humeの誤りは、あらゆる帰納的推論において、前提と結論を結ぶ唯一の斉一性原理が存在すると考えた点である。
唯一であると考える理由はない。
ある観察が仮説を確証したり反駁したりあるいは無関係であるといえるのは、ある経験的な背景仮定を前提としてのことである。確証は、仮説・観察・背景仮定の3項間の関係である。
さらに・・・。
ある観察が対立仮説のなかで特定の仮説を支持するといえるのは、ある経験的な背景仮定を前提としてのことである。
ここはおもしろいですね。「背景仮定」という概念。
単純性は観察から仮説を導く一原理であるとされていた。いくつかの対立仮説があるとき、単純性およびデータとの無矛盾性はどの仮説が「最良」かを決定する。私の主張は、単純性がこの機能を果たすときには、いつも自然界に関する経験的仮定を置いているという点である。単純性や最節約性にもとづく議論では、経験的背景仮定の明言はしばしばなされない。しかし、現象に関する背景仮定は不可欠である。
このあたりは凄い面白いとおもいます。
- ちょっとずれますけど、研究をしているときに、研究歴が長い人に相談をします。それは、事例をたくさん知っているからですね。明文化されない、本や論文に書かれない背景知識というものがあります。それら知識に新しく考えたことが反しないかを尋ねるのです。
- 背景仮定のところを読んでいて思いだしたのが、『非線形な世界』(大野克嗣)です。関係あるのかって言われると、あんまりないとしか言えないですが。p.244から始まる「5.3 基礎条件」という節がなかなか面白いのです。何か、関連を感じるんですけど、うまく説明できない。これは考えないでおこう。
- 非明示な多くの事に支えられている。この非明示なものに挑むのは哲学っぽいですね。
p.84
背景理論がまったくなかったとしたら、観察は対立仮説からの選択を行う能力がない。「単純性」や「最節約性」をもってある仮説を選択する根拠とするならば、裏に潜む背景理論に関してそれが暗黙のうちに何らかの仮定を置いていると考えなければならない。確証が3項間の関係であることは、観察と仮説との証拠にもとづく関連づけをするときに、単純性が「純粋に方法論的」ではありえないことを示している。
ここらへんの話も面白い。どうやって、私たちはとある仮説を選択しているのか。p.63で、「純粋方法論的」な最節約性は現実にはありえない、というのがでてきましたね。
p.89
単純性に頼ることは、ある経験的背景理論をはっきり言わずにすませるための便法である。
この文がやっぱりインパクトあります。
この前後も面白いです。
p.90の6行目から始まるパラグラフはおもしろい。
p.91
2つの事象が相関しているならば、別々の2つの個別原因を想定するよりは単一の共通原因を仮定して説明した方がよいという原理である。この原理は最節約原理の表れである。(略)。この原理もまた経験的な背景仮定がなければ妥当性は失われる。
こういうのも面白い。あとで説明されるみたい。
「2.6 Humeは半分だけ正しかった」
演繹というのは限られた場合でしか使えない。非演繹的推論は必要。
p.92
非演繹的論法が合理的であると仮定しても、なお観察だけでは帰納的結論を証明することはできない。観察以外の要素が必要であるというHumeの主張は間違ってはいなかった。
そして・・・。
「自然が斉一的である」とか「未来は過去に似ている」とかいうスローガンが、すべての帰納的推論の前提となる資格があるとは私にはとうてい考えられない
ここらへんはぞくぞくするなあ。さらにこんな感じで続く。
さらに言えば、仮説に対する証拠としての意味を観察がもつために必要な付加的仮定は、Humeが想定した普遍的レベルで存在するわけがないと私は考えている。
ふむふむ。
p.94
さまざまな時代のさまざまな分野の科学者が、観察と一致する複数の対立仮説の間の選択をする際に、単純性を基準として用いてきた。このような単純性を用いる事がおかしいという議論をここでしてきたわけではない。しかし、単純性をもちだすからにはその正体を見極めなければならないと私は確信している。
ここらへんも面白いですね。「単純だから選ばれた」ではないと。
単純性の内実が大事。
経験的対象およびわれわれが直面する推論問題に関する背景仮定をごく短く抽象的に要約したものが単純性原理であると解釈すべきである。単純性を論拠とすることは、最も一般的で先験的な科学的論証の原理をそのまま適用したのだと考えてはいけない。
私たちが単純性と呼んでいるものは、単純じゃない。
p.94-95
単純性または最節約性のあらゆる事例が同じ仮定を置いているという説はもはや無用である。この問題をさらに議論するためには、もっと科学研究の現場に近い一般性のレベルに話題を移す必要がある。個別の科学的推論での単純性の使用がどのような自明ではない仮定を置いているのかを調べなければならない。
そして、次の章ではもう少し具体的な話になると。
以下、いろいろ考えたことを箇条書きに。
- やっと、2章が読めた。だいたい1/3くらい読んだことになる。やっと以前に読んだところまで読めた。年内に読み終えられるかなあ。
- ニュートンの考えた力学やその他の自然科学がうまく行き過ぎてしまったことが、強い斉一性に対する信仰を生んでしまった、ということはあり得るのかな。キリスト教というか神学とかとも係わってくるんだろうか。
- 単純って言う言葉を使うときは気をつけた方がいいのかも。
- 物理の理論で、それって単純化しすぎなのでは?って思う事もある。でも、理論が実験データをうまく説明できてしまう。この単純化するさいに、何が行われているのか?どうして一見単純な形式に落ち着くのか?などは気になる。いろいろな場合にいろいろなことが行われている。
- 研究において、演繹的な部分もある。でも、そうでない部分もかなり多い。非演繹的な考えは必要。でも、得られたモデルが合理的であると見なす根拠は?
- 自然はなんらかの構造を持っているというのは間違いないとは思う。それが単純かどうかはともかく。人はその中の情報の限られた部分にのみアクセスできる。限られた情報を見て、どのモデルが適切かを考える。
- 一般の人というか、科学素養を持たない人の科学のイメージってどういうものなんだろうか?自分が子供の頃を思い出してみると何にもわかっていなかったなーというのは感じるけど。大学院とかで研究しなかったら、科学にたいしてどういうイメージを持っていたんだろう?
- 高校までの物理学・化学はそれが事実っていう感じで教えられていた気がするし、私はそう受け取った。大学の最初のほうの物理学の講義とかも(略)。
次回から引用をもう少し減らします。ちょっとやり過ぎました。あと、第3章の感想はちょっと遅くなる気がします。