伝えたいこと Ver. 2 "sincerity to science" その14

「その1」のURLは下記。
http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120306/p1

「その13」http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20120322/p4 の続きです。

さらに時が経って。
あたしが課程を修了して大学を出た後のこと。


あたしが研究者としての道に足を突っ込むきっかけとなったその論文は、未だ誰にも引用されていない。雑誌社は潰れてしまったそうだ。一応断っておくが、あたしがその後に書いた論文は、そこそこ引用されている。


先生はこんな感じの事をいっていた気がする。
「たとえ、学術的価値があろうとも、時流に乗れなければ消えていくのが研究だ。それは、悲しいことだけど仕方がないことでもある。でも・・・」
そして・・・。
「本当に価値がある研究であるならば、いつかまた日の目を見ることもあるだろう。それは引用されるという形は取らないかもしれないけど。ある種のスピリットの継続に、きっと意味があるんだろうと信じている」


スピリットの継続。「それは、どんな意味だろう?」と、そのときにあたしは思った。でも先生の話し方の雰囲気から、言葉では簡単に伝わらないものである気がしたし、敢えて問おうとは思わなかった。


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インパクトファクターの高い雑誌に自分達の書いた論文が掲載されること」「書いた論文がたくさんの論文に引用されること」「書いた論文に対して賞がもらえること」「博士を取得していること」「教授なり准教授なり講師なり学科長なり学部長なり専攻長なりセンター長なり、そういう名の知れた地位に就いていること」・・・。そういうもの、広い意味での肩書き、があることによって、いろいろ嫌な事を避けることができる。地位に由来する権力・権威を使って、物事をうまく進める事ができる。賞や資格に付随する信頼を使って、他者と効率よく仕事を進めることができる。


もちろん地位や資格に付随する責任というものもある。ある職に就いていることで、こなさなければいけない膨大な業務もある。地位に関わるしがらみもある。筋を通せないことによるフラストレーションもある。


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狭い研究業界の中だけの信頼関係だけで、仕事が完結するのであれば、良い研究を行い、良い論文を発表して、研究会等できちんと発表していればその人は十分に認められるだろう。でもそれだけだと、別の分野からみれば、一般的な世界からみれば、その人がどれだけすごいのかはわからない。賞とか地位とかそういうラベルがあれば、外部の人でも、ある程度はその人を判断できる。


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研究者の実績とされる物。信頼と言い換えても良い。それを有効利用すれば、いろいろな所から金・物・場所・人等を支援してもらえる。新たな研究をするさいの資本となる。後進の研究者を育てる財源ともなる。


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継続的な「研究・教育」を続けるためには、実質である「研究・教育」の結果だけではなく、形式上の地位や資格や賞があることがプラスになる。書いた論文が有名雑誌に載せられないことや、ほとんど引用されないことは、持続的な「研究・教育」という面ではマイナスになる。


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学術上は、有名雑誌に論文が載ろうが、マイナー雑誌に論文が載ろうが等価である。大事なのは、その論文の質だ。


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論文誌によって、論文にある種のインパクトがないと載せてくれないところもある。このようにハードルが高い所に載っている物は、良い研究である率が高いだろう。ハードルが低い所に載っている物は、良い研究である率が小さいだろう。でもハードルが低い雑誌に、とても良い研究が載っている事もある。ハードルが高い雑誌に、わけわからん研究が載っている事もある。有名な雑誌に載っていることは、それはそれで凄いこと。でも、価値基準をそれに影響されすぎては駄目。自分の価値基準をきっちり持つことが大事。でも、みんなが正しいと思う事を無視していいわけではない。みんなが良いというものには、それなりの理由があるのだから。べたな言葉を使えば緊張関係が大事だと言う事か。


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目の前にある自分の研究題材と自分との関係から生じる価値観。遠くにいる人達の総体から想定できる価値観。自分の目の前だけを見ていても、間違う。遠くの価値観だけを真似しても、自分の目の前にある問題には適用できない。


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ある種の権威に認められたら嬉しいという側面は否定できないと思う。でも、「ある個人が、ある小さなグループが、近しいことに注目して、似たようなことを研究した」という事だって、嬉しさにつながる。「本質的な物・楽しい物・綺麗な物・美しい物」があると、その人達の嗅覚でたどり着いたのだと思う。


研究は「自分だけとてつもなく面白い」でも良い。でも、学術の大系の中でも意味があるとも思いたい。ちょっとだけそう思いたい。他人が近しいテーマに注目したことにより、学術の大系においても意味がある可能性がほんの少しだけ高くなる。


「自分だけでは証せないこと」が世の中にはある。


だから、「スピリットの継続に意味がある」・・・のだろうか?

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さらに数年後。あたしと似たような題材で似たような解析をした別の論文が、とあるグループから発表された。けっこう有名な雑誌で。あたしのより綺麗なデータで、スマートな論理展開で、文章もとてもうまい。「あたしが以前に書いた論文で主張したかったのはこういう事だ!」と思ったくらいに感動した。数年経つと、その論文は多くの論文から引用されていた。


その論文とあたしの書いた論文とは、とても似ている。少なくともあたしはそう思う。先生も似ていると言っていた。でも、その論文の引用文献リストにはあたしの論文は載っていない。


似ていると思うのはあたしや先生の自分達の論文に対する思い入れに由来するのかもしれない。その論文を書いた執筆者達があたしの論文を読んだか分からない。あたしの論文が掲載されたのはマイナー雑誌であるし、おまけに雑誌社は潰れている。読んでいない可能性の方が高いだろう。


あたしは自問する。「自分の論文を引用して欲しかっただろうか?」と。
引用してもらえたら、嬉しかったとは思う。


でも、それはきっと"些細"な事。


似たような研究をした人がいて、その人が書いた論文が多くの研究者を刺激し、さらなる研究に発展した。


「スピリットの継続に意味がある」という先生の言葉。
あたしはその気持ちを、なんとなく理解できるようになったと思う。


でも、あたしの中に生まれたその気持ちを、どう言葉で綴っていいのかわからない。

これで終わりです。