甘えてはいけません

微妙な話を書いてしまった。


あまりにもあんまりなので削除しました。もう少しソフトに書き換えてから載せます。
【2009年4月中旬】更新しました。ついでに改題です。

他人の問題意識に影響されすぎていては駄目です



師匠:愚痴を言うことに努力をするんじゃなくてだね。
弟子:確かに、正しい道はいつも目の前にありますけどね。私の場合はですが。それは幸福なことだと思います。だって、その道を努力して進めばいいだけなんですから。
師匠:ところで、何に悩んでいるの?
弟子:むー、難しいです。それが私の問題意識の中でどれくらいの重要度を持つものなのかはちょっとわからないのですけど。
師匠:前置きはそれくらいで。
弟子:うん、えっとですね。手駒を与えられているのに、うまく使えていないのかな?っていう感覚です。
師匠:手駒?
弟子:有り体に言えば、部下みたいなものですかね。でも、金銭関係では直接は結ばれていないです。成果や教育で結ばれる関係だとも言えるでしょう。
師匠:よくわからない関係だね。まあ、広い世の中にはそういう関係もあるのかな。それで?
弟子:なんかね、そういう手駒に引きずられている感じなのです。私自身には大事な目的があるんだけど、手駒に引きずられて目的を達成できていないみたいな感じです。自分でも馬鹿みたいって思います。
師匠:手駒って言葉から類推するに将棋とかだよね。飛車を取られるのを恐れて王をとられるみたいな?
弟子:まぁ、外した比喩でもないですかね。なんというか、私みたいな職業というかそれに限らず、探求する者であるならば、他人を引きずるのが仕事みたいなものです。勝手に他人がついてくるでもいいですよ。そういう力が必要だと思うのですよ。それは、今すぐみんなを引きつけられなくてもいいのですけどね。将来にわたって積分して波及効果がないような探求というのは、価値がないとはいいませんが、私が目指すものではないですし。
師匠:引きずる力がないという認識は妥当かもね。現時点で持っていないのは仕方がないとしても、探求する者としては、身につけるように努力するべきだね。つーか、君は努力をしなすぎ。というか、自分が面白いと思わないことを極端にしようとしないよね。必要な力を身につけるために、それなりに面白さを見いだしてきちんと努力しなよ。
弟子:正論ですねえ。「正論を言ってくれる知り合いを大事にしましょう月間」じゃなかったら蹴飛ばしていたかもしれないです。
師匠:君に蹴飛ばされるほどノロマじゃないぞ。まあ、それで?
弟子:私が「手駒に探求することを面白いと思って欲しい」という価値観を持っているところが問題なのかな?と最近では思うようになりました。
師匠:面白くなくて、というか、面白いって言う成分がなくて、探求するってことがありえるの? ないでしょ? 探求することは、人の心の自然な働きでしょ? もちろん、訓練を受けた者と訓練を受けていない者の差異はあるけどね。訓練を受けていない人は、間違った方向へ行ってしまいがしだしね。
弟子:うーん、でもですね。わかんないまま、探求することに片足を突っ込むこともあり得ます。そういう人達にきちんと探求することの意味や価値や意義や面白さや辛さや苦しさを伝えるのも大事な事だと思います。
師匠:面白いと思うためには、その探求課題によっては多くの前知識が必要になるからねえ。確かに。
弟子:でもですね、私はいちいち全て教えてられないのです。というか、教えることを実質的に禁じられています。教える時間はゼロじゃないけど、全く足りない。この状況もどうかと自分は思うのだけど、この束縛条件を崩すのはけっこう大変なのですね。
師匠:一般的に、君の言う手駒の中で、そこそこ使える駒でも、探求というものがどういうものであるかをわかるのは時間がかかるかな。短い時間では無理だよね。
弟子:そうですねえ。えっとですね、これから愚痴を言います。
師匠:ふふふ、本気で来てみなよ。
弟子:手駒にさせる探求対象を私が選べないということが問題かなって思うのですね。これは、至極当然なことなのですけど。手駒のやることを私が選べない、というのが中途半端な立場の意味するものなのですけど。自ら選べないってことは、私が責任を持たない、と言うことでもあるのですけど。自らの探求することにしか、責任もなければ義務もない私の立場の強みでもあるのですけど。
師匠:まあ、自分の成果だけが、自分の未来を拓く可能性を高めるわけだからね。そして、確かに君の立場には、手駒の機能を拡張する義務は課されていないのだよね。責任もないし、義務もないというのが、強みの一つであるというのもわかるよ。
弟子:で、ですね、探求対象を選べない故に、私自身は「その探求することがとっても面白い」って主張をできるとは限らないのです。できることもありますけど、できないことの方が圧倒的に多いのです。自分が面白いかどうかわからないことを、強制に近い形でやらせるのは抵抗があります。上の者に言われたから、で相手を強制的に動かすことはできますし、これまでもこれからも私はやらざる得ないでしょう。でも、上から言われたからやりましょう、って言うのは、自分でやることの意義を説明できないって事ですよね。そういう状態って、手駒から私が馬鹿にされても仕方がないと思うよ。
師匠:馬鹿にされるのが悩みなの?
弟子:違う。意味があると私が信じていることに、手駒に働いて欲しいのです。そして、手駒にも自分がやっていることの意味や意義を理解して欲しいのです。
師匠:君は教育者ではないでしょ?何でわざわざ泥沼に足を突っ込もうとするの?
弟子:泥沼とまでいいますか。探求とはそういうものではありますが。多くの資金と時間と労力、言い換えれば人の命ということですが、つぎ込んで行われるものですし。
師匠:違う違う。探求ではなくて、理解してもらおうという事が、えてして泥沼なの。
弟子:あー、そういう意味ですか。えっと。あれ? 何でだろう?
師匠:私の仮説としては、たぶん、君は過去をなぞっているのではないかな? 自らがそうやって、学んで探求して成長してというプロセスがあるよね。それを無意識に繰り返そうとしているのでは?
弟子:むー、そうかもしれませんね。
師匠:他には悩みはないの?
弟子:なんだかんだ言って、いろいろ教え込むことはあります。目的ではなくて、方法とかをですね。進むべき理由や方向ではなく、歩き方や這いずり回り方や景色の見方などをですね。
師匠:手法は教えることができる、ってことかな?
弟子:わかりやすく言えばその通りです。得られたデータ整理とか、データの見方とか、探求における基本的な考え方とかですね。でも、対象となる探求のおもしろさを伝えるというのは、やっぱり難易度が高いです。素朴な疑問だと思いませんか、「なんでこんな面倒な探求をやるの?」って言うのは。自分が心の底から面白いって思っていないものを、相手に面白いって思わせることができるとは私は思えません。詐欺師ならできるかもしれないですけど。面白いという情熱がないのに、相手をおもしろがらせようなどと言うのは難しいです。
師匠:自分が心から面白いって思うものを持っていると言えるのは、ちょっと羨ましいかな。
弟子:それについては、自信を持って言えます。でも自信を持って伝えられるってわけじゃないのですけど。それでですね、手駒がうまく動く−あるいは働く−ように一次的に方便を使うこともありなのかもしれないのですけど、そういうのって長く続かないのです。
師匠:手駒だって馬鹿じゃないから、責任者がどれだけ情熱をかけて探求したいと想っているかどうかはわかるでしょ?
弟子:そうですね。まあ、いいです。探求対象の面白さを説明する責任は、探求対象を選んだ人にああります。これは、当然のことです。私が背負うべきものではありません。むしろ、私が背負おうとするのが傲慢とも言えるでしょう。
師匠:まあ、君の言う手駒には、その手駒のやる気に応じて、そこそこ構って上げればいいのではないかな?とも思う。君の興味に応じて、という要素もあるけど。君が興味もないし、義務もないものにはあんまり力を注いではいけないのではないかな?
弟子:うーん、そうですね。ちょっとすっきりしました。それって一応頭では理解できる結論ではありますけど、運用段階でいろいろ悩むこともありそうですし、流されたりしてしまうこともありそうではありますが。
師匠:まあ、いいかげんなことを言わせてもらえば・・・。
弟子:何ですか?
師匠:それが生きることだよ。
弟子:甘えていてはいけないですね。
師匠:自分の問題意識に対してきちんと向き合って、がんばりなさい。応援してるから。
弟子:はい。
師匠:そして、君に残された時間は僅かであることを忘れないように。
弟子:そうですね。今日は、わざわざ、時間を費やしていただきありがとうございました。