世間を知らない

大学の先生は世間を知らない、と言う人がいるが、それは間違いだと思う。正しいとしたら、世間を知っている人がどこにいるのか、と逆に問いたい。世間とはなんだ。大学だって世間の一部だろう。

大学の先生は、良い意味でも悪い意味でも世間を知っていると思うよ。

むしろ、仙人みたいな大学の先生がどっかにいないのだろうか。大学説明会の時とかに仙人的な先生を見て、高校生が「あの、ハゲデブチビヒゲ教授、マジぱねー。俺、ぜってー、この大学に入る」とか言う状況が理想的な大学の姿である(と言ったら過言というより間違いである)。

ハゲ、デブ、チビ、ヒゲに対して悪意はない事を一応断っておく。というか、これらの属性は容易に「カワイイ」属性とされうることは周知の事実である。つまり、愛(←何かを大事に思うという気持ち)が大事だ! 『ウンコな議論』(著:ハリー・G・フランクファート、訳・解説:山形浩生)でも、愛の重要性に関する記述がある。

そもそも仙人の属性は、「目立たない事」にある。仙人を見つけるのは高い難易度だろう。一見、仙人ぽいというのはきっと多くの場合偽者だ。それは擬態だろう。商売の一環である。本当の仙人は、スーツ姿かもしれない。満員電車に乗っている人達が自分以外全員仙人だと思えば、なんて貴重な体験だろうと感じ、長い通勤時間も我慢できるような気がする。

少々(!)、心苦しくなってきた。

大学なんかに「世間の感覚」なんていうものを要求するのは止めよう。「大学の先生って意外に普通ですね。もっと突飛な事を考えているのかと思いました」くらいは言って見下してやるぐらいが良い。しかし、あんまりいじめると、『ぼくのかんがえたぶつりがく』と言う本を出版をするかもしれないので要注意だ(一部のマニアには受けるかもしれない)。


「ぼくのかんがえた○○」というテンプレートの元を知らないので使うべきではなかったか? 「勘違い本」という意味合いで使った。少々ネガティブというかあげつらった書き方でよくないかも(いろいろな意味で手遅れだ)。

物理学者でも物理学に対する考えは同じではない。多くの共有する部分と多くの共有しない部分を持つ。個々人が、個々人の「僕の考えた物理学」を使って仕事をして、成果を上げてきたわけだ。本のタイトルとしてはトンデモ扱いされそうだけど。それを逆手に取るというのはあり。将来に『僕の考えた量子スピン』とかを書けば、我が罪も贖われるであろう。