批判する、ということ

http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-09-03
からトラックバックされていたので読みました。思ったことを少し書きます。

別に「最終記事」とかしなくてもいいと思うのだけど。ブログ形式なんだし。

これは、津村さんとしてはもはやこの話題に触れたくない、と云う意思表示なんだと思う。

とあって、なんか納得してしまった。

ニセ科学問題を扱うのは、科学素養(プラス法律素養)がある程度ある人じゃないと難しいとも思う。考える余裕がある人や興味がある人が、自分の本来の活動と絡めるなり絡めないなりに活動することになっているのではないかと思う。

これは果たしてそうなんだろうか。

私事で恐縮だけどぼくは科学的素養や法律の素養があるとはとうてい云えない人間だ。そんな奴がどうこう云うべきじゃない、と云う声も聞こえてくるけれど、その点についてはこちらのエントリでちょっとまとめめいた意見を書いたつもりだ。

丁寧に書いていなくて申し訳ないです。ここでの「扱う」は「裁判沙汰になってでも批判する」という意味合いです。考えてみれば、アプローチの仕方はいろいろあります。「どの程度のリスクを負うつもりか?」により、できることも変わってきますね。「解決すべき社会問題の一つであり、私はそれにアプローチしたい」という強い思いがあるのなら、素養がないことなど小さな問題でしょう。素養が現時点でなくても、ニセ科学の問題を考えることを通して、科学や法律の知識を身につけることだって可能だと思いますし。

考える余裕がある人や興味がある人が、自分の本来の活動と絡めるなり絡めないなりに活動することになっているのではないかと思う。

と私は以前書きましたが、「現状でそうなっている」という意味合いで述べたことで、それよりもっと望ましい状態があるとは思います。例えば、複数のグループ*1に対して、「ニセ科学を蔓延させないための枠組みに対する基礎研究」というタイトルで、科学研究費*2が採択されてもおかしくないと思います。現状は、その準備段階とみなすこともできます*3



私自身がニセ科学批判に貢献していることと言えば、

  • たまに面白い記事があったら自分のサイトからリンクする。
  • 近くでニセ科学批判の講演会があったら参加する。
  • ニセ科学批判の本を買う。
  • その本を知り合いに紹介する。その本を読んだ相手と雑談する。

くらいかな。そういったインパクトの小さいことしかしていません。そういうレベルのものを貢献と言っていいのかわかりませんが。でも、そういうレベルだったら、ニセ科学の氾濫に対して苦々しく思っている人なら誰でも参加できると思います。



また、私は大学に勤めているので(短い任期ではありますが)、学生と一緒に実験したり議論したりする機会があります。そういう時に、私が今知っている限りの「科学の考え方」というのを伝えようと思います。これは私が課されている通常の業務内という見方もできます。だから通常の業務以上にさらに時間や労力をかけてやるか、を言わないと意味がないのですが、私としては通常の業務から期待される以上に言っているように思います(学生からはウザイと思われているかも・・・)。


でも、立ち向かうものに対して批判を行うと云う行為に及ぶにあたっては、おのれの職業意識に照らし合わせた熟考が必要なのではないか。

津村さんなりの熟考だったのではないかと思います。でも、まだ問題に気がついて間もない時には、「最終記事」なんてタイトルをつけないで、「とりあえず寝かせて置きます」というスタンスで良いんじゃないかな、っと思って、あの記事に言及したのでした。

【追記】
ついでにこっちも読んだ。「流行」http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-08-19-1
「津村さんはなんでわからないのだろうね」って感じの話かも。

「非専門家による「ニセ科学批判」批判」http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-08-25も読む。私は、「「ニセ科学批判」批判」の方は、あんまり調べていないんです。過去の記事にも書いたかもしれないけど、ニセ科学批判を通して出てくる「科学というものの本質」みたいなものに私は興味があります。

*1:理工学系、人文社会科学系含めて。

*2:例えば3億円くらいの予算?企業から出資させることも可能かも?

*3:研究予算を獲得するためには何らかの実績が必要だったりします。