コミュニケーション

週刊金曜日の取材はこんなものだった。」(山形浩生)
http://cruel.org/other/friday.html

同じ意見の人が「そうですねー」「だよねー」「やっぱりねー」と言い合っているのは、コミュニケーションでもなんでもないんです。コミュニケーションは、自分が最終的には変わることです。自分がいままで認めていなかったことを、認めざるをえない立場に追い込まれたりする体験がないものは、コミュニケーションではないと思っています。

  これはいやなものです。不愉快です。ぼくだって完全にオープンじゃないし、思いこみもあるんです。自分が正しいと思っていたいんです。口ではみんな、自分に思いこみがなくてフェアであるかのような口をききますが、だれだってそうだと思います。でも、そんなことはありません。ぼくにはぼくの偏見も思いこみもあるんでしょう。だから「この野郎、なにいってやがる」と思いつつ、でもいろいろ考えると反論の余地があまりなくて、なにもいえなくてひたすら悔しい、そういうものだと思います。

  でも、そういう場面こそ、ぼくが本当になにかわかったといえるときです。半年たつと、あのとき本当におれは何かを新しく理解したんだな、とわかります。やっぱり自分はまちがっていて、わかっていなかったんだな、と思います。それは決して愉快な気分じゃないです。できれば、そんな体験は避けたいし、自分がずっと正しいと思っていたいです。

 でも、そうはいかないんです。だから、真の意味でのコミュニケーションは不快だと思います。特に、その人にとって重要な分野であればあるほど、コミュニケーションは不愉快でしょう。経済の専門家に、ぼくが主張するような経済がらみの論点を納得させるのは本当にむずかしいですし、ぼくにフリーソフトとかの分野でなにかを新たに納得させるのは、お互いにとてもフラストレーションのたまることだと思います。でも、だからといってそれを避けろってことではまったくありません。それに耐えられない人は、まあ長生きすればいいのです。


面白い。

・・・

私は、言い過ぎてしまうことが多々あるのですけど、反論してくれると嬉しいです。