「研究を面白いと思って欲しい」と言うのは私の傲慢さなのだろうか?

こういうのは、書くべきではないのかなーと思いつつ書いてしまいましょうかね。

ある日のこと。「この研究は、これこれこういうとっても基本的なことに関係があるんだよー」と物理学素養を持つ学生に私が解説していました。そしたら、「これって暗記することですか?」ってきかれて、たいへん悲しい気持ちになりました。

「君は、江沢先生の本を読みなさい」とありがたーい説教をしてあげようかと思いましたが、いろいろ虚しくなってやめました。


下記は以前に書いた『理科が危ない』(江沢洋)の感想の抜粋です。

p.36

「教育について多くの人の言うことが、ぼくにはオウムの繰り返しに聞こえる。画一的な教育が個性を押しつぶす。創造性を育てよう。暗記はいけない。どれももっともらしい。でも、天の邪鬼は思う。なんと、ひ弱な!個性とは、押しつぶされそうになっても撥ねかえすくらい強いものではなかったか?創造とは、すなわち反抗ではなかろうか?わかりきった公式さえ頭に浮かばなくて考えごとができるものだろうか?」

知者の言というのは力強いものだと思う。こんな言葉を中学生のころに聞きたかった。そう、「あなたはスタートラインにも立とうとしないの?」という感じの力強い言葉にあたりたかった。

p.37

「暗記偏重が好奇心をなくしているのだろうか?ぼくには、その逆に見える。好奇心がないから、なんでも暗記になってしまうのだ。好奇心がないのは力がないせいだ。暗記だって、一概に悪いとはいえない。物理の学生たちが計算に不器用なのは、型を意識して練習することをしてこなかったせいではないか?」

ごめんなさい、ごめんなさい。計算不器用です。やっぱ計算しないと馬鹿になるよ(しくしく)。

p.44

「学問は、噛み砕いた餌を口移しにするような仕方で伝えられるものではない。噛み砕いてしまうのは、かえって不親切だ。なによりも学生の楽しみが減るではないか。学生の歯も顎の力も育たない。そもそもいくら噛み砕いてもらっても自分で考えなければ、わかるはずがない。」

問題を解こうとして解けないのはつらい。自分が馬鹿なんじゃないか、才能がないんじゃないか、なんて思うこともある。でも「考えることをやめてしまったら、あなたはなんなの?」ってことになるのだ。