「科学批評にはなにが必要か?」(『赤の女王とお茶を』2009-03-25)

http://d.hatena.ne.jp/sivad/20090325/p1

わたしなりに批評というものを定義するなら、「対象を文脈の中に位置づけること」だと考えます。

世の中には多種多様な「文脈」が存在しますから、対象をどの文脈にどのように配置するのか、ということが批評の作品性であり、批評家の個性になるのだと思います。もちろんレトリックは重要ですが、だからといってなんでもアリ、ということにはなりません。文脈の方向性はともかく、事実の把握に信頼性がなくては優れた批評とはいえないでしょう。

面白い。

私は、そういうのが大変苦手なのです。


「批評」ではないけど、「書評」の役割って何だろう?というのは以前に考えたことがある。下記のものとか。

2004-05-03 感想や考えたことを書いているわけで書評はしない
作品とはかなり関係ない妄想与太話を書いている可能性も高いです。そこのところよろしくお願いします。他人に読んでもらおうと思って書いているところだけではないのですよ。

2004-05-16 書評じゃないのよ
私は書評屋さんじゃないので書評は書きません(とてもじゃないが書けないです。)。あくまでも感想です。そしてそういう感想は得てして自分語りになりますね。それでいいと思います。
私が読んだ本をこのページを読んでいる人に薦めたいわけではありません。不特定の人に薦められる本というのはなかなかないものです。ほんの少しでも興味を持ったなら他の書評を読んでから判断したほうが良いです。

2006-03-03書評はしません
書評はしません(できません)。書評とはつなぐことです。何と何をつなぐかというと、本と、書評を読む読者とをです。その本のその分野での位置づけとか何が新しいかとか。長所とか短所とか。書き方はいろいろあると思うけど。書評にも読者を制御しようという意図があるはず。ある人たちには本を読ませ、ある人たちには本を読ませない、という意図です。または俺の書評を続けて読め、という意図も当然入るでしょう。意図というより、効果という言葉を使うほうが適切かもしれませんが。

私の感想は私と本との関係をより強く補強する程度で、他者と本との仲立ちにはなりえないでしょう。それでいいと思います。

2006-05-04 本の感想であって書評じゃありません
前にも書いたけど、また書いておこう。

書評の場合は「本」と「評者」と「書評の読者」がいます。「書評の読者」と「本」をつなげるのが「評者」の役割。感想の場合は、「本」と「自分」とをつなぎます。「自分」というのは「本を読む前の自分」「本を読んだ後の自分」とかそういうふうにわけて考えるのもありだと思います。読む前の自分が本によってどういうふうに変わったか?どういう洞察を得たのか?とかね。自分にとって当たり前すぎることは書く必要はないし、どこが気になったかを書けばいいかな、って思います。

2006-07-09 書評はしません
私はレビュー(書評)は書かない(感想は書く)けど、amazonのレビューとか見ているとなんだかなぁ、って思うことがある。
学術的な内容を一般向けに書いた本というのがあるよね。そういう本をけなしているものがある。本をけなすのは良いのだ。悪い本はけなされても仕方がない。でも、それなら良い本を紹介して欲しいと思うのだよね。「〜という欠点がある」というはそうでしょう。では、その分野を知らない人はどういうのを読めばいいのかな?書評というのは本と読者をつなげる(まはた引き離す)ことが目的の1つだと思う。本のトピックを学ぶのに最適な本は何だろう?入門者なら?中級レベルなら?専門家なら?
書評のスタイルというのはいろいろあるとは思うし、テンプレートに押し込めてすむようなものでもない。でも書評というものだって評価される。その評が良い評価をうけるためにはどうすればいいのかを書いている人は考慮しているのかな。

その人の書評を読みたい、って思わせることが書評を書く上で考慮するべきことだと思う。


これも以前にどこかが書いたことがあるかもしれないけど、sivadさんの文章を読むと、私がなんとなくぼんやりとそれとなく感じているもやもやした何かを、きっちりとはっきりと多くの人に読みやすい形で明確に示しているなぁ、って感じます。どのような過程で洗練された考えに至ったのかな?ってたまに考えたりします。多くの時間と労力とお金を情報収集や思考や議論に費やさなければこのような形で熟成されないのではないかと思う。