昔のメモ


2004/08/16頃に書いたもの。昔は政治のこととかも少しは気にしていたのかな? 今の生活は研究と本でほとんど占められている。それ以外はほとんど生活に最低限必要なこと、というか、ある意味惰性で済むようなことばかり。

「効率性とか」


人の命って0.5とか0.7とかいうふうに数えられなくて、必ず自然数になってしまう。・・・意味不明?それでも今回はいいです。


イラクの人質のネタはよく知らないけど、日本政府があれだけいろいろ助けるために力とお金を使ったのは日本人の信頼を買うためなのかな、って少し思う。


例えば10億くらい全部でお金がかかったとするよね、ってかなり少ない見積もりですけど。そのお金を使ってできることっていろいろあると思うのですよ。数人の人を救うだけでなく、100人とか1000人以上の人にとって役に立つ使い方っていうのもできるんだろうな、って思うのですよ。ただ、そういう使い方は目立たないかもしれないけどね。


もちろんボランティアさんがいろいろしたことのメリットもあると思います。否定したいわけでもないし、面倒だから特に分析もしません。いろいろな要素があるのだと思いますし、いろいろな主張の相克があるのが世界な気もしますし。


目立つところにお金って言うのは使われるものなのかな。「投資が欲しければ目立たなければいけない」というのは親子兄弟関係でもいえることかもしれないな、って思う。失業者に仕事を与えるとか、若者や中高年の自殺を減らすような政策を考えるとか、そいうい難しくて対立しやすい政策より、目だった数人の命を救うほうが話題性はあるのかなぁ。

そういえば拉致事件の話も難しいなぁ。理屈の通じないやつにどう対すれば良いのか?やっぱり暴力しかないのか?暴力の手段を持っていないなら金か?


私はねぇ、自分以外で無駄があると、「非効率だ!」って叫びたくなる性質(たち)なのです。「お前の生活は無駄ばっかりだ、むしろお前の人生が無駄だ」という声は何故か耳を素通りしてしまうのですが。


だって、困っている大勢の人がいるのに膨大な税金使って趣味の研究できないじゃないですか(・・・って結局やるけどね)。


「目立つ」ってことは、やっぱり力なんだな。それが制御できるかどうかは別として。たとえ小さくて最初は目立たない価値でも、その積み重ねに意味が生まれ、価値があるものとされると思う。そして価値があるものは長い間受け継がれる。そういう長い間受け継がれるものに自分という生を投資できたらいいと思う。


一時でも目立てるってことは意味がある。そのときに得られた投資を次のステップに活かすことができればいい気がする。そこで、止まってしまわずに。好きで生まれたわけじゃないけど、長い間生きているうちにこの世界[社会] に愛着も持つし、もう少し生きてみようかな?って控えめに思う。そして、正の遺産と負の遺産を残してきた過去の人たちのことを想う。どんな想いを抱いて我々の祖先は相克し共存し生きてきたのだろう?そのメンタリティはどのように変遷しているのだろうか?あんまり変わっていないで、些細な事でけんかをしたり仲良くなったり、些細なことで人を憎いと思ったり愛したりしてきたのかな?


社会の資本をどこに投資するか、ってけっこういい加減に決まったりするのだと思う。私は自分自身に対してうまく投資できないんだから、あんまり文句を言えたぎりでもない。でもたくさん言うけどね。他者の行動にケチをつける、っていうのはたぶん楽しいことなんだと思う。それが意味があることであるとは限らないけど、意味ある批判というのもある。


誰がなんと言おうが、ある条件下でニュートン運動方程式は成り立つ。だから匿名の誰が正しいと言おうが間違っていると言おうが関係ない。では政治に対する発言はどうだろう?匿名でも正しいことは正しいし、正しくないことは正しくない。実名(社会的な地位)を出すことは、その人の人生の重みをつけることができるという、メリットとデメリットがあるくらい。でも、私は政治的な発言というのは実名(またはそれに準ずるもの)があるべきなんじゃないかと思う。理由はその「重み」こそが正しさを作る主体であると考えるから。社会的な正しさとは「重み」を持つ個人の集団の相克により形成される一つの秩序ではないかと思うから。


・・・うーん、まとまらない。Memoだしいいか。読者(いるのか?)の人たちは惑わされないように。深い意図はあまりありません。論じたいことがあるなら自らのページで最初から立論しましょう。私の話は土台になるようなものではありません。まぁ、もしかしたら、考えるきっかけになるかもしれないけど、たぶんそういうことはない。あんまり深く考えていないので矛盾もあるだろうし、適切な表現を用いているとも思えない。まぁ、ただ、何となくなページなので。