不機嫌の理由(「リリカの仮綴じ〆」20040129)

http://web.archive.org/web/20040710120237/http://d.hatena.ne.jp/Ririka/200401

その次の機会に訪れたルーブル美術館で、中世の宗教画や肖像画の部屋をいくつもいくつも通りぬけてゆくと、1ヶ所、すごい人垣ができているところがあった。大人の腰ほどの身長では何の絵が飾られているのか見えない。人々の後ろ側をまわってすきまを探し、ようやくちらっと部分が見えた。「モナリザかぁ…」落胆した。「なあんだ、有名だからむらがってるんだ」

「風景は、人が見れば見るほど磨耗する。今の空とちがい、彼等の見た光景はまだすり減っていない空だった。今、いくら飛行機に乗っても、彼らが感じた空を僕等は見る事ができない。」(宮崎駿 サン=テグジュペリ『人間の土地』解説より)

磨耗するのは風景だけじゃない。「芸術作品」だってそうだ。でも多くの人々は、むしろ磨耗したもののほうを好むらしい。そこで安心して悦楽に浸っているように見える。

だけどほんとは…。磨耗しやすいのは、対象よりも何よりも、人間の精神、自分の感受性なんじゃないだろうか。イタリアでバルセロナでわたしは、見るもの見るものがすでに「知ってる」ことの確認にしか感じられないことが悲しかった。五感が磨り減ってしまったみたいだ。

本を読んで学んだ結果が、実物を見たときに、初めてのものに触れる感動と引き替えに、「ああ知ってる」という感覚しか引き起こさないのなら、学ばないほうがましじゃないか。どうすればいいんだろう? わたしはどこがまちがってる?

知っても知っても、もっと深く知りたい、という学び方もあるはずだ。ある分野で一つのことを知れば、知らないことが十増えてしまう、という経験はよくある。どの分野を選んで進むのか考えなくてはならない。

たまに元気がなくなったときにに読み返す「仮綴じ」から上記は転載。たいへん面白い。


「なんか面白いことないかな?」って言ったり思ったりすることがある。でも、ちょっと見方を変えれば、身の回りにはきっと面白いものがたくさんあるんだと思う。


自分の精神や感受性が磨耗していないか?って自問する。

自分の選んだ道は正しい?って自問する。

自分のやっている物理は楽しい?って自問する。

残りの時間は僅かだって認識・把握している?って自問する。