釣りとか農業とか、問題を解くために試行錯誤することとか

小さい頃(小学生の頃)、父親と釣りに出かけることがあった。ほとんどの時間は釣れないから暇で暇で仕方がない。釣りは、待つスポーツなのだと思う。

私は餌をちょろまかして、川の浅い処に餌をばらまいて、数センチとかそれ以下の小さな魚が餌に群がって食べているのを見て遊んでいた。子供と大人の時間の流れ方は違うので、長い時間待つ事はちょっと辛いのだ。

小さくてもいいから、頻繁に変化があるものを見たかったのだと思う。大人は、長い時間をまって大きな成果を得ようとするのだろう。


研究者は、長い時間をかけないと得られない物を通常欲している。すぐ結果が欲しい、という子供の頃のメンタリティだけでは得られない物を追っている気がする。

研究者にとって「少年の心」が大事、って言われることがあって、それはそれでわかるけど、そういうのだけではない、というのもわかる。なんというか、まあ、当たり前の前提みたいな物で敢えて語られることも少ないと言う事なのかもしれないけど。

というような、なんでも研究に結びつけるのは私の悪いクセであり、文章をつまらなくする要因だと思っている。

そして、さらに悪いクセは、メタな事を言ってしまうことである。


さて、続き。釣果のために、たくさん本を買い込み、餌を手間暇かけて作ったり、自分で道具を作ったりしていた。今もきっとしているのだろう。あのような行いは、研究者や技術者っぽい。ライフワークに近い気がしてくる。釣ってきた魚は、池に入れて楽しむ。

池が魚の量に比して狭くなったら、新しい小さな池を掘って、魚を移動し、さらに今までの池を深く掘る。池が広く深くなったら、新しいいけから魚を戻す。そういうのを小さい頃の私は手伝ったり、横で見たりした。

趣味のためにいろいろ工夫する。子供は親のあーいう所を見て育つのだと思う。必要な知識を手に入れ、道具を買ったり作ったりしていろいろ試行錯誤するところを。

あの手の父親の趣味に関して、母親に意見を聞いたことはないが、どう思っていたのだろうかね。

そういえば、お盆の前くらいに、母の兄(伯父)が亡くなった。その、お葬式に出た。伯父さんの生前の話をたくさん聞けたというのもあるけど、既に無くなった母方の祖父の話をたくさん聞けたのも貴重な機会だったと思う。

私の記憶に残っている祖父は農業をしている姿がメインだと思う。でも、農業学校の先生とかもしていたらしい。自らの理想の農業のために、いろいろ試行錯誤をしていたのだと言う。

惰性のように畑で生産していたわけではなくて、何らかの目的を設定し、そのために試行錯誤を続けてきた。その事を初めて認識した気がする。

それは、祖父に限らない事だろう。多くの人が、より豊かな暮らしのために試行錯誤を続けたのだと思う。

そういう努力を考えると・・・。私がぐちぐち言っていることは実に下らないって思える。

私の目の前には、素敵な問題と嫌な問題が常にある。生きるために、それを解いていこう、って帰省中に考えた・・・ような気がする。