科学とか芸術とかの発展

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

『部分と全体-私の生涯の偉大な出会いと対話-』(W. ハイゼンベルグ)から引用。

p.27

「しかしあなたが理論をやるにしても、あなたには一見重要に思えないような小さな問題も、細心の注意をはらってやらねばなりませんよ。アインシュタイン相対性理論だとか、プランク量子論のように哲学にまで及ぶような大きな問題を論じようというときにでも、当初の問題提起の段階では思いも及ばなかったような、解明しておかなければならない多くの小さな問題があって、それらを包括した全体の中にはじめて、新しく開拓された領域の一つのまとまった像をつかむことになるのです。」

「しかし私は付随した小さな問題よりもその背後にある哲学的な問題の方にずっと興味があるのです」と私はおずおずとしながら意義をとなえた。それにたいしてゾンマーフェルトはまったく納得しなかった。
「でもあなたはシラーがカントとその注釈者についてどういったか知っているでしょう。"王様が土木工事に着手すると人夫たちは仕事にありつける。"はじめは、われわれはみんな人夫なのですよ!しかしあなたがそのような小さな仕事でも注意深くしかもきちんとやり、その結果、我々が希望しているような何か意味のあることが出てくるならば、それが楽しいものであるということがあなたにもわかってくるでしょう。」

p.36

「おそらく王様と人夫のたとえはいつも誤って解釈されているのでしょう。もちろん私たちには、はじめは全ての栄光が王様のものであり、人夫の仕事は単なる補助的なつまらないもののように見えるでしょう。しかしこれはちょうど逆なのではないでしょうか?おそらく王様の栄光は、結局、人夫の仕事の上に成り立っているのです。そもそもの栄光は、人夫が長い年月にわたって骨の折れる仕事をし、それによってそのような困難な仕事を完遂する喜びと、それが生みだす成果を手に入れることができてはじめて可能となるのです。おそらくバッハとかモーツァルトのような人物が、音楽の王様としてわれわれの目にうつるのは、彼らが二百年にわたって多くの名もない音楽家たちに、最大の注意深さと誠実さをもって、自分たちの思想を再構成させ、新しい解釈を下し、それによって聴衆に理解できるようにする可能性を与えたからでしょう。こうして聴衆でさえもこの綿密な完成と解釈の仕事に参加し、その際に偉大なる音楽家によって表現されたあの内容の一つ一つが彼らにとっても現存のもとになります。これは芸術にも科学にも同じようにあてはまるように私には思われますが、歴史的な発展をみれば、どちらの部門にも長い沈黙の時代とゆっくりとした発展の時代というものがあります。大きな発展のないこうした時代にでも大切なのは、誠実な、細かい点にまで正確な仕事なのです。全力をつくして成されなかったような仕事は、そのうちに忘れられます。そしてそれには言及される価値さえもありません。しかしこのゆっくりとした過程の中で、時間の経過とともに問題の部門の内容が変化し、こうしてこの過程は突然に、そしてしばしば全然予期もされなかったような新しい可能性や、新しい内容を創造します。偉大な天才は、このような経過の中から次第に姿を現してくる成長力に魔術的に引き寄せられて、二、三十年もたつかたたないうちに、せまい空間の中に非常にすぐれた芸術作品を創造し、あるいは大きな重要性をもった科学的な発見をすることになるのです。(略)」

私はこういう考え方に大きな影響を受けていると思います。そのままではないのですけど。




そういえば、p.46ページに、ワイルの『空間、時間、物質』

空間・時間・物質〈上〉 (ちくま学芸文庫)

空間・時間・物質〈上〉 (ちくま学芸文庫)

空間・時間・物質 下

空間・時間・物質 下

のことが書いてある。


『部分と全体-私の生涯の偉大な出会いと対話-』ですけど、物理素養のある人(特に量子力学を学んだ人)は楽しめそうだと思います。私の妹も面白い、って言っていたので、物理素養があまりなくても楽しめるとは思いますが。

王と人夫の比喩は覚えていたのですが、どこに載っていたかは覚えていませんでした。探したら5分くらいで見つかったので、私の記憶力もあんまり駄目ではないのかもしれない(→ただの偶然だろう)。