その28 「そういうのが大事だと思う人に私が愛されたから」

23歳未満はみないこと。

私は自分の性格を少し理解している。
ある方向へ話が進んでいこうとすると、
それを考えるのは「はしたないこと」だ、とか
「恥ずかしいこと、愚かなこと、惨めなこと、貧しいこと」
などなどと話が進むのをいやがる傾向がある。
知識のあるなしや、古い慣習に従っているかとかで
差別をしないようにしないといけないと強く思う。

でも、周りの人々が古くて無意味な慣習や規則に苛立ちを覚えてしまう。

古い考え方から脱却できない人たちを恨んでしまう。
うらんだり憎んだりしてもしょうがない、と思いつつ、それをおさえようとしつつ、
心の中にそういう苛立ちや他者に対する疎ましさが溜まってしまう。

私が新しい適切な考え方を手に入れることができた事だって、
私の努力というより、運が良かったとか、
環境が恵まれていたとかであって、才能があったわけでもないのに。
事実や適切な手法を知らない人や学ばない人に苛立ちを覚えてしまう。

でも、他者を恨むことは忌避しなければいけないとも思う。

恨んだり妬んだりするのは、
怒ったり嘆いたり、荒んだり、愚痴ったりするのは、
器が小さい奴というか、駄目人間なのだと思う。


だから・・・、強く生きたいと思う。


自分が学べる環境にいるというのは、
自分が努力家だったり、
才能があったからというわけではない。
ただ、そういうのが大事だと思う人に私が愛されたからだ。
だから、そういうのを大事だと、価値があるものだと自然に思っていた。

しかし、そういう価値観と持たない人も多い。
適当でもいいや、ちゃんとしていなくてもいいや、
きっちりしてなくてもいいやって人が多い。

私自身だってそういう要素はあるけど。そういう要素に流されたくなかった。
周りにがんばれる人というか尊敬できる人もたくさんいる。
そういう人を見ていると自分が卑小で嫌になる。
でも、そういう人を見ることができる環境のおかげで私もがんばろうと少しは思える。


いつまでも地面を這っているもの達への苛立ち。
空を飛翔するもの達への憧れ。
いつか、自分も地面から空へ飛びたてるだろうか?
今までのつまらない実のないと思っていた生活を、
それは飛び立つための準備期間だった、と
言える時がくるだろうか?


・・・なんで、私はこういう気持ち悪い捉え方をするの?


語り手は女性でしょう。20代前半くらいかな?


私はこういうのをよく書きます。「想いをトレースする」遊びですね。

具体的なモデルを特定することはできません。いろいろ収集したり、抽出したり、圧縮したり、拡張したり、抽象化したりします。