越えなければいけない対象

2006年2月26日より前に書いたもの。20歳未満は読まないこと。


まぁ、こんなの載せている場合じゃない気もしますが。

私は一時的に書くのを止めて溜息を吐いた。



同じ事を繰り返し考えてしまう。思考がループして発展しない。少しでもいいから進むことができれば良いのにって思う。私が何を考えているかって?



私はあの人に対して「私はあなたをとっても愛している、とっても大好きだよ」って言いたかった。でも、どうしても言えなかったけど。何故かな。何故だろう。どうしてだろう。今でもよくはわからない。ただ、なんとなく私がそれを口に出すことは私が大好きなあの人の要素を壊してしまう気がした。私は嫌われるのが怖かったのかな。そうだとも思う。否定されるのは悲しい。とっても哀しい。



私はその人に美しくあって欲しかった。美しさとは外面的なものではない。強い意志を持つ者だけが放つことができる輝きのこと。他者を圧倒する力のこと。


心の危ういバランスの美しさ。
千切れそうなほどの緊張感。
そして、けして断ち切れないしなやかさ。


私以外であの人の美しさを知っている人はどれだけいただろうか。そんなことはわからない。多分そんな台詞自体が自惚れだと思う。あの人に美しさを感じる感じた自分がいたのは確かだ。



「『優しい嘘』と『苦しい真実』どっちが欲しい?」「どっちもいらない」



私はその人に対して嘘を言いたくなかった。それが、私なりの誠意だと思った。「誠意」とか軽々しく使ってしまうのはよくないけど。薄っぺらに聞こえるかもしれないけど。


何も言わないのが良かったのかもしれない。それも、「私のあり方」だった、と今では少し思う。



拒絶の言葉・・・
「あなたは私のことを何にもわかっていない」
「結局自分が可愛いだけなの?」
「自分の理屈を偉そうに演説して楽しいの?」


悲しく感じるのは何故だろう。私の心が伝わらなかったのが悲しい。私の言葉では相手に伝わらなかったのが悲しい。


私は共感能力のない人かもしれない。惨めで、悲しくて、独善的で、おせっかいで、他人の心も分からない。自分勝手な善意や真心とかを他人の押し付けて悦に入っているのかもしれない。自己嫌悪まみれになり、死んでしまいたくなるくらい。


でも、ふと思いなおす。あんな、拒絶の言葉を吐くあの人は私のことを分っていると言えるだろうか。分った上で言っているの?分らないで言っているの?あの人こそ共感能力がないんじゃないの?


なんて、ことを考えていたら、‘‘誰か’’小さな溜息をついているのが聞こえた。

・・・




また同じようなことを考えている。しょうがないな。小さな溜息。


こういう思考パターンは他人の考えを想定する上でどの程度役に立つかを考える。


あんまり役に立たないだろうな。


むしろ無理やりこの考えに帰着しようとする自分を想像してしまうくらい。手の込んだモデルを持っていることが単純でわかりやすく応用に富む理解を得ることの妨げになる。何かモデルを構築するときは、まず主要な要因を考え単純なモデルを少しずつ必要に応じて小さな作用を考えてモデルを精密化すべきだ。


妄想の世界に入って楽しむのは小説の中だけで十分だと思う、


でも私はこういう変なのが好きだ。ドストエフスキーの『虐げられた人びと』のアリョーシャというキャラクタの実のないいいわけじみた言葉の羅列を苦々しく思いながら、憤慨していらいらして本を最後まで読んで本を閉じて、心のどこかが少し悲しくなり寂しくなり、優しくなり癒され(安易に聞こえます?)、はぁ、っと溜息をついて、「がんばろう」って思う。私の大事なもののために。私の大事な軌跡のために。綺麗な軌跡を描くために。


その私の痕跡を見て誰かが「がんばろう」と思ってくれたら少しだけ嬉しいと思う。



そんな未来を想定していたら、‘‘誰か’’小さな溜息をついているのを感じた。


・・・


私は小さな溜息をついた。また同じこと考えているな、と言うのではなくて。


文章を書くときは最初は自分の世界にどっぷりはまる。だけど推敲している段階では他人の目を気にする。ダイレクト過ぎる表現を分り難くしたり、分り難く過ぎるものを分かり易くしたりする。私の知り合いを想定して、その人だけ分ればいいと言う趣旨の物を書くときもあるし、自分だけ分れば良い物も書くし、そこそこ多くの人に分ることも書く。


釣りをしたことはあるかな。釣りたい魚によって仕掛けが異なるように、私はそこそこ限られた読者を想定して文章を書いている。


思わせぶりだ。その先に、特に実があることがあるわけではない。肩透かしで基本的に終わる。私の書くものを読む人たちは、そこら辺をわかっているとは思う。たまに実のあることを言う、と思うかもしれないが、それは借りたものである。消化されていないので適用条件すらも明確ではない。つまり何の意味もない気もする。どうだろう。まぁ適用条件は読者が考えればよいのである。


高校数学を習った人なら場合分けの概念を知っているはずだ。
二次方程式の解
ax^2+bx+c=0
a=0、a≠0の場合でまず分ける。
a=0の場合は、さらに、
b=0、b≠0
と場合分けする。
係数の値によって分けて考える・・・ように。


私が何かを書くのは、私の考えの先を行って欲しいという想いもあるし、私の変な考えを誰かがに矯正して欲しいという願いもある。つまり反例・逆・対偶・裏・極限・中庸・反対の極限などを読んだ時に想定するはず。私の予想もしなかったものを、考え付くのではないだろうか?そう思うと、とてもわくわくする。私の文章を読むことによって、どんなことが読んだ人の脳で展開されるんだろう。それを私に教えてくれれば、もっと私の変な思い付きを発展させられるのにな。


そんな妄想を抱いていたら、どこからか溜息が聞こえてきた気がした。

・・・


私は溜息をついて、書くのを一時的にやめた。


多くの人と付き合うのは楽しいと同時に疲れる。当たり前のことかもしれないけど。自分が好きな人とだけ付き合いたいとは思うけど、そういうわけにはいかない。せめて好きなことに、質と量とを多く投入できればいいと思うけど。


嫌いな人がいるから、好きな人を好きでいられるのかもしれない。好きな人を私が全員殺してしまっても、私は嫌いな人の中から好きな人を作り出すし、嫌いな人を私が全員殺してしまっても、私は好きな人の中から嫌いな人を作り出すだろう。


私は人に悪意をあまり示すなというふうに教育された気がする。というのは嘘で、そういう意図を勝手に周りの環境から感じ取った。もともと私にそういう要素があるかもしれないけど、悪意を持ちたがる傾向が強いことも確かではある。誰かを憎むなんて普通の日常的な事である。


でも、私は人を憎むのはあまり良くないことだとは思う。


まぁ、憎むというのは嫌いなだけではなく、そいつが自分の幸せの障害であるからだろう。憎むというのは相手・対象に対する自分の卑小さを示してしまう。


憎んでいる分だけ自分の卑小さを示すことになる。憎むことを忘れるのも大事なことかもしれない。まぁ逃避の場合もあるけど、あえて対象と戦わないのもひとつの選択だ。逃げを推奨するわけではないけど、自分が取り組むべき対象を的確に把握するというのはとっても大事なことであるし、憎い憎いで心が満たされているのも嫌な気がする。そういう衝動があることが羨ましいなんていう人もいるかもしれないけど、っていないかな。


やや脱線気味である。本線なんてないのかもしれないけど。


嫌いとか好きとか。なんとなくそういう言葉で人をラベリングしたりする。普通にすることだと思う。でも、嫌いな人とも付き合わなければいけないよね。好きな人にも悪いところがあるよね。私は相手が好きでも嫌いでも、相手の要素をできるだけ観察して情報を集めて、要素をばらばらにして、しまう。ある点では評価できる。ある点では駄目。


相手の良いところばかり見ないで。相手の悪いところばかり見ないで。そういうふうにして、付き合いたいと思う。


私はこうやって、些細なことでとても怒りやすい自分を制御してこれまで生きてきたのではないかな?


そう思う。ショックアブソーバの質は高くなっているが、感情を読み取るシステムも経験をましてより過敏になっている気もしないでもない。相手から誤魔化しとかこび(媚)とかを感じると、とてもいらいらする。各種のフィードバック回路が心の中にあるようなないような気もする。


眠気とともにフェードアウトする私の心が、小さな小さな溜息を感知した。