学術論文がgeneral publicにとってaccessibleでないのは問題だと思う

http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0511.html#14t1

学術論文は誰であろうと読みたいと思えば読めるようになっているべきである。なぜか。

第一に、結果を秘匿せずに全ての結果を一般に公開するようになった事こそが近代学術の発展を促した。結果を公開する事によって知識を前提に知識を積み上げたり、間違いを指摘しするダイナミズムが生まれた。いやむしろ、公開は学術を促したと言うよりは、これが近代の学術の定義であり本質そのものといってもよい。従って成果は公開されるべきである。

そして第二の理由は現代の学術研究の大半は税金によってまかなわれており、知識が全ての納税者に還元されるべきだからである。

しかし結果の公開に関して、学術出版をする企業が存在することの意味がこの十年で逆転してしまった。そしてその事にまだ気がついていない人は多い。

18世紀からコピー機が普及するまでの間、学術出版社たちは学術論文を多くの人に公開する為に最善の存在だった。我々はすでに反対向きに考える事に慣れてしまったが、コピー機ができるまでは最善のコピー法は印刷をする事だった。だから出版業者は情報を広くコピーし配付するための最善の存在であった。そして出版社に著作権を譲り渡す習慣は、著者に許可を得ずにコピーを量産できるために、general publicに情報を広めるための良い習慣であった。

コピー機が普及してからこの関係は微妙な変質をしたが、まだ何となくなんとかなっていた。

しかし、インターネットが普及した今や、ネットにくらべて印刷は最悪のコピー・配付方法と言える。そして業者たちは著作権の譲渡を強要しその著作権を盾に論文を私有財産のように扱い一般への公開を拒否する。

いまや反対に情報の流通をさまたげる存在となってしまっている。

これは、多くの人が知っておくべきことだと思います。とっても大事なことだと思います。


研究者の業績は、論文で評価されます。でも、「どの論文誌にのったか?」が(論文が読まれる前に)評価されます。この評価が、ポストや研究費の獲得に密接に結びついています。だから、このシステムに研究者が抗うことは大変難しいでしょう。

・・・でも抗わなくてはいけません。でも、現在の私の力は皆無であって、何にも出来る気がしないけど。

何回も引用してますが・・・。
「OSCON2002基調講演<フリーカルチャー>」
http://ittousai.org/lessig/free_culture_japanese_text.html

<リフレイン>

1. 創造とイノベーションは常に過去の上に築かれる。
2. 過去は常にその上に創造されるものを支配しようとする。
3. 自由な社会はこの過去の力を制限することで未来を可能にする。
4. われわれの社会は日々、自由を失ってゆく。

そして、もし君たちが、自分自身の自由のために戦うこともできないというのなら ……君たちはその自由に値しない。

がんばらないとねぇ。


関連して下記の記事なども面白いです。

http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0702.html
2月18日(日)

「科学論文の無料化を図るオープンアクセス運動に対抗するため、一部の出版社が闘犬の異名を取る広告会社と契約」とのこと。

警戒するべき動きだと思う。


次の記事も関連ありますね。


http://homepage3.nifty.com/mogami/diary/d0404.html#01t1

そういうことなら、先にプレプリントサーバを普及させるといいと思うんだけど。物理学では雑誌に投稿する前の論文(これを「プレプリント」略して「プレプリ」という)のほぼ全てが プレプリントサーバに登録されている。サーバが現れてからここ十年の物理の論文のほぼ全てがこのなかには納められている、そしてこの先もそうだろう。他の分野の人にはピンとこないかも知れないがこれが物理学者コミュニティーに与えた利益は絶大なものだ。プレプリサーバが普及するまえは(素粒子論では)論文のテーマの流行に日米で6ヶ月の時間差があると言われていた。それが普及以後はほぼゼロになったと言われている。(たしか統計を取っていた記事があったと思ったけど。)日米差を忘れてもこれによるアイデアの流通の加速は大変な利益だ。(他人の流行を追うことがいいことかどうかは別にして。)またたくさんの雑誌を買いそろえることが出来ない弱小の研究機関に属する研究者でも情報を得ることに何の困難もなくなったのもすばらしいことだ。