『科学の真実』(J.ザイマン)

科学の真実

科学の真実

なかなか重い。でも、明日までには読み終えると思う。あと80ページくらい。いくつか気になったところをピックアップしよう。


p.230

大事なことは、セレンディピティそれ自体が発見をもたらすのではなく、発見するチャンスを創り出すということです。偶然のできごと自体には科学的な意味はありません。それが誰かの注意と関心をひいて、科学の流れの中に取り込まれると重要性を帯びるのです。しかし、異常を察知して、それを研究の目的としなければ、成果はありません。言い換えれば、その重要性を理解する準備のある人がセレンディピティのチャンスを利用して発見するということです。

p.231

このため、ポストアカデミック研究者には、正式な承認なしに比較的地味な研究をするという自由がほとんどないということは重大なことです。その結果、彼らはすべて「正常な」科学をしているように見え、セレンディピティの余地はありません。彼らは研究資金や契約によって、いるはずのない野生のガチョウを見つけようと道からそれることなどは許されないようなきちんとした計画に縛られています。それでも、研究の成果は確定しているわけではなく、細部まで日和見主義的な論理に支配されています。研究文化に特徴的な「時間の浪費」は基本的にささやかなセレンディピティの実践なのです。

p.242

科学者は理論に関する自分の好みについて、「一般性」、「特異性」、「単純性」、「倹約性」、「複雑さ」、「厳密さ」、「柔軟さ」、「対称性」、「不調和」、「対話性」、「微細性」、「精確さ」、「範囲」、「有益さ」、あるいは単に「優雅さ」などで表現しようとします。しかし、これらは本質的に発見的-つまり発見への手引き-であって、真に満足できる成果を間違いなく保障する処方箋ではありません。

進化論的な観点からは、研究の手腕とは、可能な観測とアイデアの広大な「研究空間」の中で、見るべきところを知り、見出したものの価値を認めることです、この研究空間における格言、経験に基づく方法、研究戦略、方法論的原則、現象論、その他の非公式な「近道」はあらゆる科学のパラダイムに欠くことのできないものです。