自分の持つ倫理が適切であるかどうかについて、あまり私は自信がない。
自分の倫理観は社会からずれているとも思うし、修正するべきこともたくさんあると思うけど、できれば譲りたくない一線というものもある。
倫理は行動指針であって、生きていくための戦略とか戦術だと思うことにしたら私は気が楽になった。「人とはかくあるべきだ」ではなく、「ある母集団の中で私はこのような戦術を取る。その中で生き残ることができるかできないかはその戦術の有効性による」ということ。
私の倫理が有効なのか有効でないのかはよくわからないけど、いきなり全部他者の倫理で置き換えることなんてできないから少しずつバージョンアップして騙し騙し使っていくしかないと思う。
これは、2006年3月ごろ書いた文章。今も、だいたいこんなふうに考えている気がする。
人を傷つけてはならない(特に、殺してはならない。)。
人の物を奪ってはならない。
自らの命が危険な時は、殺人が許容されることもありうる。
自らの命が危険な時は、略奪が許容されることもありうる。
自らの命を危険にさらすような状況に、もって行くことは推奨されない。
他者からの憎しみや恨みや妬みや嫉みを持たれる事は、度が過ぎれば危険である。
fairness(公正)の概念は、危険を回避するための指針である。
これは2008年7月ごろに書いたもの。まぁ、こういう見方もある、という程度のこと。
何故人を殺してはいけないか。小学生以下には、「人のものを奪ってはいけません。人を傷つけてはいけません。」って押し付ければいいと思う。
大人の場合。「人を殺してはいけない」というのが何故成立するのかを考えてみるとして、それをモデル化する。いくつのモデルを考えられるか?制御変数は?従属変数は。時間空間によって変動しにくい定数とよべるものは?倫理の進化モデルとかも面白いかも。突然変異と淘汰で解釈できる?あと現状を変えるとか捉えるための統計力学的なモデルとかも面白そう。ここの人間同士の近接相互作用を〜〜として。外部のパラメータを〜〜として、みたいに。
これも2006年の3月ごろ書いたもの。
『〈ほんもの〉という倫理』(チャールズ・テイラー)
という本を読んだことを思い出した。私がこの本を読んで面白いと感じたのは、倫理の進歩というものが人間の歴史で無視できない役割を示しているということ。工業や商業の発展の裏には(裏って言っていいのか)倫理がとても関わっている。人間の倫理感や道徳観は数値化するのが難しいから、その寄与を測るのは困難だ。でも、それを無視してしまうといろいろなことをうまく理解できなくなる。
- 作者: チャールズテイラー,田中智彦
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 2004/02/20
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 100回
- この商品を含むブログ (22件) を見る
これも2006年の3月ごろに書いた。
- 「場合分けが大事やねん」と口を酸っぱくしていっている私ですが、場合分けすることにまず気がつくかどうか大事です。普通の場合、気がつかないことが多い。つまり選択肢を知らない。選択肢に気がつかない。有限の認知能力しかないから?とか言ってみたり。「それは場合分けの対象になるのか?」「場合分けするとしたら、どう場合わけできるのか?」「そして重み付けは?」
- リスク評価では新しいリスクを発見することが重要な仕事らしいです(中西準子さんの本に書いてありました)。
- 「科学方法論って言ったら、こういうことやって欲しいよな」というのを最近考える。データの整理の仕方が、科学的な方法論の1つだよな。統計処理とか重要だよなぁ。でも私はあんまり知らないのだけど。
- 民主主義のモデルとかの適用条件とかの話もけっこう好き。多数決の意味づけとかね。
- 倫理に関することは興味深い。現在社会の倫理はいくつの変数からなっているのかな?こういうのを考えるとき磁性体とかのモデルを考えてしまうのは私が磁性屋さんだからであって、統計力学的に処理できないかな、なんて考えてしまったり。各個人間の倫理相互作用と、社会の経済状況とかを加味して・・・。
- 社会現象を自然科学のモデルで考える前に『アナロジーの罠』とか読んだほうがいいけどね。駄目でも、最低限「詩的意味」は残るかもしれませんが(笑←誰が笑うんだ?)。
- 政策を決める際にはやはり数値化したモデルが必要なのだと思う。そうしないと社会のどこに投資するかをうまく決められない。完全なものなんて誰も求めていないので、主要な相互作用とそれに想定できる誤差を加味して考えればいい。
- アナロジーの濫用はいけないけど、アナロジーは強力なツールというか武器なので、使うのを躊躇しすぎるのも問題だと思う。
- 物理学科出身の人にもいろいろな人がいて、「人の心理・行動や社会現象を物理用語で解釈・説明するということ」に対して好む人と嫌悪感を示す人がいる。二人に物理素養があって、物理概念を使うのが一番分りやすいモデルと判断されるのなら、物理素養を使うのに肯定的。相手がわからない概念を比喩として使うのは問題だけど。でも使うだけで嫌がる人とかもいて、「そんなに忌避しなくてもいいじゃない」と思う。何で嫌なのかな?嫌な経験でもあるんでしょうか?コミュニケーションをするのは「高度な一致」のためなのだから互いの共通基盤をフルに使わないなんてもったいないと思う。
- 説明するとは相手の思考体系の一部に帰着させるか、相手に新しい思考体系を作ること。そういう意識がなければ駄目だと思う。
どうも、問いが深まらない私。修行しましょう。
2006年1月ごろ書いた。
何で、私は、こんなこと考えていたのでしょうね。ただの変な人な気がしてきた。