25歳以下は読まないでね。
メリットとデメリットの比較。
外乱を受けやすい弱さと脆さ。
自分の力に対する自負(自信)と
過去の偉大な人たちへの敬意と絶望的な距離感。
「他者と自分」の無知や配慮のなさへの苛立ち。
自己への帰着、それが楽だから?
ちゃんと知識をつけてから話して。
もっと真剣に考えてから話して。
私の価値以上の、
もしくは私に準ずる価値を見せて。
上記は、あるウェブサイトのコメント欄を見ていて、オーナーの考え方はこんな感じかなーって思って、綴ってみたもの。激しい応答があって、たいへんおもしろいサイトだった。2004年頃かな?
「傲慢と自負とはどういう違いがあるのかな?」というのも考えていたと思う。上記の私の文章に組み込まれた意志は、ある側面では傲慢な文章だろうね。経験のなさや無知に由来するものかもしれない。でも、なんらかの誠実さや切実さを伴ったものでもあるかもしれない。
わかりにくいかもしれないので、もう少しわかりやすくしてみようと思って、解説を加えてみた。でも抽象性がまだ高すぎるかな?
メリットとデメリットの比較。
何らかの行動を起こす決断のためには、
メリットとデメリットの比較をすると思います。
「どんな要素を考えるか?」は、時と場合と人によりけりですし、「その決断にどれだけ時間をかけるか?」も、時と場合と人によりけりでしょうね。外乱を受けやすい弱さと脆さ。
やると決めたことでも、誘惑や脅迫に負けてしまうことはありますね。そういう弱さを組み込んだつもりで、計画を立てたつもりでも、やっぱり物事をなすのは大変だと思うことは多々ありますよね。自分の弱さや脆さにいらだちを覚えてしまうときだってあるのではないでしょうか?
自分の力に対する自負(自信)と過去の偉大な人たちへの敬意と絶望的な距離感。
他者との比較から、「自分は少なくとも無能ではないな?」と、思うことは多々あるでしょう。でも、尊敬する人とかとの差を考えると、どんな努力をしても、たどり着けない境地みたいなものがあるのではないかと怖くなり、佇んで進めなくなってしまう時もあるかもしれませんね。
「他者と自分」の無知や配慮のなさへの苛立ち。
特に優れた人達と、過去の自分や今の自分を比べる。並外れて優れた人達と、過去に出会った人達や、今近くにいる人達を比べる。自分や他者の無知や配慮のなさにいらだちを覚えることもあるかもしれませんね。それは、仕方がないことなのではあるのだけど、こんな状況では、到着したいところまでとてもじゃないけど、届かない気がする。
自己への帰着、それが楽だから?
自分が悪いとか、もっと努力すればとか、そういうの。でも、全てのことを自分の行動に帰着できるわけではないのだけどね。でも、そう思うことで心理的に楽をしようとする人もいる。それで、何で楽になるかって? 自分を責めても意味がない場合に、そういうことに時間を費やすとしたら、それは逃避の一形態というのが私の意見。
ちゃんと知識をつけてから話して。
もっと真剣に考えてから話して。話していることが薄っぺらだってすぐにわかる場合がある。もし私と時間を共有したいのであれば、もし私に影響を与えたいと思うのなら、もし私から何かを引きずり出したいと思うのなら、もっともっと勉強して知識をつけてから、もっともっともっと真剣に考えてから話して欲しいな。それはできないことじゃないでしょう?
私の価値以上の、もしくは私に準ずる価値を見せて。
もし、私に好きになって欲しかったら、もし、自分の存在を認めて欲しかったら、もし、心を通わせたいのならば、価値を見せてくださいね。
私の好きな人達に、私の尊敬する人達に、私の存在を認めて欲しい人達に、私を理解して欲しい人達に、私が影響を与えたい人達に、私が心を通わせたい人達に、私が時間を共有したい人達に、私が情報を引き出したい人達に、「相手以上の、もしくは相手に準ずる私の価値を見せなければいけない」、と私は強く思うのでした。
何故なら、価値を見せなければ、相手は真剣に私につきあってくれないでしょう? 私が価値を認めない相手に対しては、私は真剣につき会うことができるとは、けして思えないのだから。