『セクシーな数学 ゲーデルから芸術・科学まで』(グレゴリー・J・チャイティン)

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

p.90

数学の論文を査読するときには、間違いがあるかどうかは客観的に断言できますが、論文に価値があるかどうかは査読者の意見です。数学も例えば文芸と同じなのです。明確な答えがなくて、はやっていた領域が消えてしまうことがあります。ある種の問題は、流行らなくなって分野自体が消え去ります。

面白い。いつも思うけど、私がやりたいことの多くは、私がやろうと思わなければだれもやらないだろうな、って事。


p.92

マックス・プランクは、新しい科学理論は反対者を説得して勝利するものでは決してないと述べています。反対者は、絶対に納得しないのです。何が起こるかというと、反対者が死に絶えるのです。年をとって死んでしまい。新しい考えになじんだ、それを奇妙な他所もではなく自然なものと考える新しい世代に取って代わられるのです。さらには、深い科学的アイデアが当初は全く実用的ではないことも大いにあるのだと思います。五十年か百年後には、多数の技術的な応用が生じているとしてもです。ある意味で、深い科学は芸術のようなものです。なぜなら、典型的な芸術家は困っているからです。何人か芸術家の友達がいますが、皆生き残るために苦労しています、他に仕事を持っているので、芸術を続けられるのです。同じ事が多くの革命的な科学についても言えます。革命的なアイデアが人々を納得させるには多くの年月が必要です。

こういうのは、科学者や研究者ではないと当たり前だとは思わないでしょうね。

p.99

数学者は証明を美しいと言います。「エレガント」という言葉もつかいますが、「美しい」という言葉のほうが頻繁にでてきます。物理学者は、理論が美しいとか、間違っているには美しすぎるといいます。さて、この美という概念は何でしょうか?

普段の研究生活に美はあるかな?って思う。美を求めているかな?って自問する。


p.101

−美しい証明の特徴を述べてもらえますか。
そうですね。その証明が啓発的だと、美しいと感じると思います。さらに、これはハーディからの引用になりますが、びっくりしたときですね。もうすでに知っているとしたら、興味がわきませんから、驚きは必要です。驚きがあるはずです。しかし、それから必然的だと思えなければなりません。最初に驚かせた後で、必然的だと思わせなければなりません。もちろんそうだ、どうして思いつかなかったんだろうという羽目にさせなければいけません。

こういう物理を探り当てるのが夢だったりする。



p.116

良い数学をするにはとてつもない感動が必要になります。それは非常に困難です。啓示を受けて、それを行なうとてつもない感情的な駆動力を持つ必要があります。人間は、絶対に機械ではありません。創造の働きは魔法だからです。科学を研究する規則は、芸術をするのに規則なんかないのと同様に、ありません。系統的に科学を行う方法なぞないのです。科学をする方法を学校で教えることはできません。無駄なだけです。

ここだけ取り出すと誤解を招いてしまうかもしれないな。

研究をやっていると、すごいおもしろい、って思うことがあるのだけど、この面白さを誰に分かってもらえるんだろう、ってちょっと哀しくなったりすることもある。これは、研究に限らないことかな。