「日曜日の歴史探検:高学歴ワーキングプアとは何か」(IT Media エンタープライズ)

http://d.hatena.ne.jp/kenjiito/20091004/p1

いずれにせよ、日本の社会にとって、高度な知識を持った人材が増えることは望ましいことであるので、専門性の高い職業人の養成自体は間違いではない。しかし、問題は、日本の大学院が高度な専門性をもった職業人の養成をするように転換されえなかったことだ。そもそも、教育システムを変えるためには、教員の側の養成から行わなければならないはずなので、短期間にできることではなく、数世代かけて行うべきはずだったのだ。

うわぁ。正論ですね。私も、時間をかけてゆっくりと行うべき事だったと思う。

だが、それ以上の問題は、どうやら上のような問題意識を大学院の側、教員の側がまったく持っていなかったことである。だから、職業人の養成など、単に能力がないからできないというわけでなく、やろうともしなかったというのが実情だろう。そして、IFや外部資金などに基づいた大学教員の評価システムには、人材養成などというものに重点が置かれる余地がまったくなかったように思われる。そもそも大部分の研究者、とくに自然科学系の研究者大学の外の社会のことなど、ほとんど何も知らないし、関心がないし、知っていても誰にも評価されない。彼らの言い方では、それによって論文数が増えるわけではない、ということになる。

なんか涙が出てくるくらい正確な分析だと思います。

制度としてみたときに、もっとも大きな責任は大学の側にあり、そしてもっとも変化させることが困難だ。最大の問題は大学院の教員だろう。上に書いたように、教員の評価がIF、論文数、外部資金の三つによってなされる限り、人材養成として、職業人の養成が評価されることはない。なぜなら、教員側としては、教員の研究室における論文の生産能力が最大化されるように大学院教育、研究室運営を行うことになるからだ。そして大学院生は研究室の分業体制のなかで比較的汎用性の低い技能に特化して、共著論文を論文を生産するのがもっとも効率が良い、ということになる。こういう形で博士論文を書いた大学院生は、その特化した能力以外にはとくに技能がないので、企業としては偶然その技能が、今後長期にわたって必要であることが分かっている場合は別として、採用するインセンティブを持たないのは当然ではないだろうか。

この分析も大変もっともだと思うなあ。