湯浅誠『どんとこい、貧困!』

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/dontokoi-hinkon.html

〈なぜなら、それを言っても意味がないことを知っているからだ。やればできるなら、やればいい。しかし、その前提にはそれを可能にする条件(“溜め”)がある。その“溜め”のない人に、「やるんです」と言っても、やれない。いくら「飛べ」と言われても、人間である以上、鳥のようには飛べないのと同じだ。
 他方で彼女は「立ち直る力は、その人の中にある」とも言ったことがある。最低限の条件をととのえれば、そこから先は本人がもともともっている力でやっていける。でもその最低限の“溜め”をつくらなければ、いくら「やるんです」と言っても、言われても、できない。できないことを強いても意味がない。意味がないから、言わない〉

 条件をつくらずにただ言い放つ行為を湯浅は「説教」だと呼んで批判する。〈説教からはなにも生まれない〉。

 自分史における「成功体験」的なものと、社会にむけた自己責任論批判とが分裂したまま自分のなかに「共存」していることがあるのだ。そして「成功体験」を無前提に他人にむけて押しつけていることがままある。

 だからこそ、この「溜め」を媒介にして相手と自分の違いを考えることは画期的な整理だとぼくは思った。〈彼女は、自己責任論的な考え方を、自分のそのときに可能な範囲で自分に向けることはあっても、けっして他人に向けることはない〉――これこそ今もっとも必要とされている哲学的仕分けの一つだ!


いちいちごもっともです。


何かに挑戦するためには、「溜め」というか余裕というかリソースが必要だよね。ちゃんと条件で分けたり場合で分けたりして考えないと駄目なのだな。持っている人というのはそれに気がつかないものなのかもしれない。