『夜と霧 新版』(著:ヴィクトール・E・フランクル 訳:池田加代子)

夜と霧 新版

夜と霧 新版

興味深かった所を引用しつつコメントを入れてみたり。

p.2

カポーが収容所監視兵よりも「きびしかった」こと、普通の被収容者をよりいっそう意地悪く痛めつけたことはざらだった。たとえば、カポーはよく殴った。親衛隊員でもあれほど殴りはしなかった。一般の被収容のなかから、そのような適性のあるものがカポーになり、はかばかしく「協力」しなければすぐさま解任された。

そういうのも人の性質みたいだね。


p.5

わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

重い台詞。



煙草一本は一杯のスープを意味する、らしい。何らかの実績により煙草を手に入れることができると、その分だけ長生きできる。

p.7

仲間が煙草を吸いはじめると、わたしたちは、行き詰まったな、と察した。事実、そういう人は生き続けられなかった。

淡々とした文章の裏で、すごい多くの人間が死んでいる。




収容所に入れられる時の話。
p.14

精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告された者が処刑直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想しはじめるのだ。

そういうのはあるかも。危機感が生じないといけないときに生じないというのはかなり問題かもしれない。


p.24

こんなふうに、わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ! 私たちはもう、みっともない裸の体のほかには失うものはなにもないことを知っていた。早くもシャワーの水がふりそそいでいるあいだに、程度の差こそあれ冗談を、とにかく自分では冗談のつもりのことを言い合い、まずは自分自身を、ひいてはお互いを笑い飛ばそうと躍起になった。

こんな困難な状況になってもユーモアを言おうとするのが人の性質の一つでもあるのか。

さらに次に生まれたのが好奇心だという。それに関しては本文を読んでみて。



p.27

収容所暮らしでは、一度も歯をみがかず、そしてあきらかにビタミンは極度に不足していたのに、歯茎は以前の栄養状態のよかったころより健康だった。あるいはまた、半年間、たった一枚の同じシャツを着て、どう見てもシャツとは言えなくなり、洗い場の水道が凍ってしまったために、何日も体の一部なりと洗うこともままならず、傷だらけの手は土木作業のために汚れていたのに、傷口は化膿しなかった(もちろん、寒さが影響してくれば別だったが)。

人間ってそういうものなのか、って思ったりする。



p.31

ゴットホルト・エフライム・レッシングは、かってこう言った。
「特定のことに直面しても分別を失わない者は、そもそも失うべき分別を持っていないのだ」
異常な状況では、異常な反応を示すのが正常なのだ。

おまえ死ぬかもね、って趣旨の事を言われて人間は微笑んだりするのだな。




p.33

被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。これまで述べてきた激しい感情的反応のほかにも、新入りの被収容者は収容所での最初の日々、苦悩に満ちた情動を経験したが、こうした内なる感情をすぐに抹殺しにかかったのだ。

『石の花』(坂口尚)でも、そういう感情が消えていく描写をしていたなあ。


p.34

被収容者は点呼整列させられ、ほかのグループの懲罰訓練を見せられると、はじめのうちは目を逸らした。サディスティックに痛めつけられる人間が、棍棒で殴られながら決められた歩調を強いられても何時間も糞尿の中を行ったり来たりする仲間が、まだ見るに堪えないのだ。

それが、数日から数週間たつと、

p.35

眺める被収容者はすでに心理学で言う、反応の第二段階にはいっており、目をそらしたりしない。無関心に、なにも感じずにながめていられる。心に小波一つたてずに。

これは、なかなか恐ろしいって思うのでした。

苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた者には見慣れた光景になってしまい、心が麻痺してしまったのだ。

・・・人間は慣れてしまう、ということか。


p.37

感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の徴候は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。

これも興味深い事実。さらに、今、自分が使っている盾は何だろうって考えてみる。


p.45

第二段階の主な徴候である感情の消滅は、精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだった。現実はすっかり遮断された。すべての努力、そしてそれにともなうすべての感情生活は、たったひとつの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を、自分の生命を、そして仲間の生命を維持することに。

生きることに特化した様式になるのか。



続きの感想はそのうちかくかも。