『過去を復元する 最節約原理,進化論,推論』(著:エリオット・ソーバー (Elliotte Sober)、訳:三中信宏)の感想 2

過去を復元する―最節約原理、進化論、推論

過去を復元する―最節約原理、進化論、推論

「感想」と言うより、「引用+連想した事」を書く。今回は「日本語版への序文」からについて。序文からして濃い。


『過去を復元する』から引用。
p.3

科学理論は観察データが支持するときにのみ受け入れられるべきであると一般には考えられています.けれども,観察された現象に矛盾しない科学理論がただ1つではなかったとしたら,どうすればいいのでしょうか.科学者はどのような基準で,それらのなかからもっとも妥当な理論を選んでいるのでしょうか.単純性(simplicity)や最節約性(parsimony)が基準として求められるのは,まさにこのときです.単純なすわなち最節約的な理論ほど,より美しくそしてより真実らしく見えるという意味で,他の対立理論よりもすぐれていると考えられています。

単純性や最節約性が科学的推論のなかで果たしてきた役割はいったい何でしょうか.

  • 物理屋さんとして思い出すのは、地動説と天動説の話。天動説でも説明できるけど、地動説の方がシンプル。細かい話はいろいろあるらしいが、詳しくは知らない。
  • ちょっと関係ないかもしれないけど。小学校・中学校・高校生の頃は、学校でならう科学というのは事実・真実だと思っていたと思う。大学に入り、そして学部4年から研究を始め、院生になったころからは、事実とか真実とか言う言葉ではちょっと違うような気がしてきた。
  • 科学は、何かを説明するためのモデルであり、真実とか事実とか言う言葉が持つニュアンスとはちょっと違う。科学の話をするさいに、真実とか事実とかいう言葉は使いにくいという印象がある。
  • 科学を考える時は、「情報、データ、モデル、理論」等の言葉を使う方が良い気がする。モデルと理論はだいたい一緒の意味かな。

『過去を復元する』から引用。

単純性が主張するのは,観察データと矛盾しない理論がいくつかあるとき,もっとも単純な理論を選択すべきであるという点です.

要は,データによって等しく支持されているかぎり,さらに複雑な他の対立理論ではなく,もっとも単純な理論を,たとえそれが実際には複雑だったとしても,選ぶべきであるという点です。

  • 「理論そのものが単純である」というわけではないというのは大事な事だと思う。
  • p.2〜3に、哲学者の疑問としては次の2つが出てくる。「理論の単純性すなわち最節約性を何によって評価するのか」と「自然現象についての私たちの信念を導く指針としての単純性や最節約性は,いかなる根拠によって正当化できるのか」とについて。
  • 哲学って何だろうと思う事はある。『統計学を拓いた異才たち 経験則から科学へ進展した一世紀』(デイヴィッド・サルツブルグ)ISBN:453219539X に面白いのがあったので引用しておく。

哲学は、哲学者と呼ばれる一風変わった人々による深遠な学問的練習などではない。哲学は日々の文化的思想や行動の背後に潜んでいる仮定を考察するのである。我々が自らの文化から学んだ世界観は、ちょっとした仮定に支配されている。そのことに気づいている人はほとんどいない。哲学研究はこうした仮定を暴きだし、その正当性を検討することにある。

  • 哲学って意味があるのかな?って思っていた時期もあったけど、こういうふうな切り口だと意味があると言わざるを得ない。
  • あと関係ないけど、この本の最初の方にこんな引用があって面白い。

「神の考えを理解するには、統計学を学ばねばならない。なぜならそれらは神の目的の尺度であるからだ」フローレンス・ナイチンゲール

  • 統計学を拓いた異才たち』の英語タイトルって、"The Lady Tasting Tea"なんですよね。最高にしゃれている。
  • 別の本に脱線してしまいましたが元の本に戻ります。

『過去を復元する』から引用。
p.3

この最節約性の問題に対する哲学からのアプローチの大半は,上の2つの疑問について「一般科学的」(global)な回答を与えようとしてきました.その背景には,単純性や最節約性の果たす役割はすべての科学において同一であるという仮定がありました.生物学での理論の単純性は,物理学での単純性と同じであり,それらは社会学での単純性とも等しいという仮定です.さらに,ある科学分野で単純性が理論評価基準として正しいならば,他の科学分野でも同様に正しいという仮定もおかれていました.

  • 私も、三中さんのいくつかの本を読む前には、なんとなく同一の基準なのではないかと思っていました。

本書は,このような一般科学的な仮定が成立しないかもしれない,ある科学問題を論じた本です。

  • 「一般」は広い分野で成立するというのが強み。しかし、広い分野で成立することは限られている。局所に目を向けたときに、局所でしか成立しない面白い性質が含まれていると言う事はある。

『過去を復元する』から引用。

最節約性が物理学や社会学での最節約性と同一であるかどうかは,けっして自明ではありません.また,進化生物学の理論において最節約基準を用いる事の正しさが立証されたとしても,その立証が他の科学に通用するか否かも自明ではありません.おそらく,いま必要なのは,「一般科学的」(global)ではなく,「個別科学的」(local)な最節約性の説明だといえるでしょう

(bold体は引用者による)

  • 最初の最節約性は、「進化生物学者が扱う問題において」という意味合い。
  • 太文字にした所。この「個別科学的」という視点がたいへん面白いと思う。

私の興味は、個別科学に存在する哲学なのかもしれないって思った。物理学者の哲学、化学者の哲学、生物学者の哲学とかあるだろう。そういうのに触れたいと思った。

私は実験を通して、物性物理学という分野を研究しています。いわゆる典型科学です。でも、典型科学をやっているのだけど、帰納でも演繹でもないアブダクションという推論形式は自分たちの実際の研究の進め方と遠くないと思いました。

(典型科学の性質としては、「観察可能」「実験可能」「反復可能」「予測可能」「一般化可能」などがある)

  • 大学に入った後の物理って、近似計算が多くて、最初は、というか長い間馴染めなかった・・・って思い出した。
  • からしさの度合い、という概念は、普通の人が普通に使いこなしている概念でもあるけど、そういうのに意識的になったのは大学院で勉強している頃かも。
  • 物性の研究においては各種の実験手段を用いてその物質の性質を探っていきます。それは、「歪んだなガラスを覗きこむ」( http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/DAKARA.html )という比喩がぴったりだと思います。私の場合は磁性が専門なので、実験手段としては、X線、磁化、比熱、核磁気共鳴、電子スピン共鳴、中性子散乱、μSR、メスバウアー分光など(他にもいろいろあるけど略)が関係します。一つの実験だけだと、モデル化の際にいくつかの可能性が生じます。それは複数の測定手段を通じて、少しずつ明らかになってきます。
  • 実験によって得られる情報は限界があります。いくつものモデルがある中で、最も尤もらしいことを選びます。
  • そういうと、やればできる、って印象を受けやすいかもしれません。でも、「あたりまえのこと」か「まったくわけがわからん」ということが多いです。しかし、一見「あたりまえ」であることが、実は当たり前ではないってこともあるし、「まったくわけがわからん」が別の視点からみると理解の手がかりを得ることができることもあります。
  • ちょっと脱線してしまいましたが戻ります。

『過去を復元する』から引用。
p.4

「そこでは,科学と哲学の境界線はすでになくなりつつあります」

  • ハイゼンベルグの自伝にある量子力学ができつつある頃の哲学的な議論を思い出す。もともと境界線は無かったのに、いつの間にか境界線ができてしまったのかも。『部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話』(W. K. ハイゼンベルク) ISBN:9784622049715 参考。

『過去を復元する』から引用。

この問題は進化生物学の研究によって重要ですが,人間の知識に関わるもっと広範な哲学的考察にとっても同じくらい重要です.

  • これもたぶん正しいのだと思う。科学の性質として「情報を扱う」というのがあるとあると思います。(「情報を扱えば科学か?」というとそれは違いますけど。)
  • 全ての学問分野は、ある種の情報を扱います。それぞれの学問分野において、情報の解釈とか評価が必要でしょう。つまり、哲学が絡んでくるのだと思います。
  • 「その情報に対する、その評価・解釈は妥当だろうか?」「妥当だとしたらどういう基準において?」とかそういうのです。
  • こういうのは、どんどんメタになりがちですが、生に近い情報(「1次情報」とでも呼ぶか?)とその解釈・評価(二次情報)、さらに「解釈・評価」に対する解釈・評価(3次情報)くらいまでは役にたつものだと思います。
  • 「役に立つ」という言葉を使って次のを思い出しました。

系統樹思考の世界』(三中信宏) ISBN:9784061498495

なぜなら、共通属性を共有している(それゆえ互いによりよく似ている)ものどうしをあるひとつの枝にまとめることにより、たがいにばらばらにそれらの対象を理解するよりも、記憶を節約できるからです。通文化的に階層分類が世界中で採用されてきたという認識人類学が提示した知見は、その間接的な証左です。私たちは、ものを分類するときには、ごく自然に階層的な配置をしようとするので、「樹」(と「鎖」)はそのような生得的な分類思考を補助する強力なツールとなります。

  • あんまり関係ないですけど、私の性癖として情報が圧縮できると嬉しいというのがあります。日常生活・仕事・遊びの研究においても、情報が圧縮できると嬉しい。手間が以前よりかからなくなることに嬉しさや喜びを感じます。実質的にそれが役にたつかどうかはおいておいて。
  • あと「役に立つ」に関連して、『非線形な世界』(大野克嗣)asin:413063352X のp.233あたりに、「5.1 意味と価値」というのが載っていて面白いです。

p.234から長めの引用。

抽象的かつ絶対的に何かに「意味がある」という主張には内容がない.「意味がある」とは誰かにとって「意味がある」ということだ.「ある対象がわれわれにとって意味がある」とは,少なくとも「われわれがそれに留意するだけの意味がある」ということである. あることに留意する,すなわち意識をある程度集中するということには生物学的な意味でコストがかかるから,「あることに意味を認める」ということは,そのことにある種の「投資」をする価値がある,と無意識的にせよ,判断するということだ.ある記号列を解釈することが解釈者に価値があるとみなされることである. したがって,われわれが「意味を認める」という判断の基準には,その前提としての価値判断のための基準(尺度)がなければならない.たとえば,幾何学とか解析学にある意味を認めるということは,それを(少なくとも誰かが)学ぶことに価値を認めるということだ.πはわれわれが意味を認めるそのような数学の分野に必須であるから,われわれはπは意味のある数だと結論するのである。事実判断の基礎としてすでに価値判断があることを先にみたが,そのようにすべて価値判断が基本である。

  • で、このあとに「では価値とは何か?」についても書いてありますが、そっちは興味があったら自分で読んで下さい。
  • 基準という言葉から下記のような事をTwitterに書いたのを思い出しました。

http://twilog.org/fujisawamasashi/date-101027

  • 雑感538-2010.10.26「時代が私の研究を選んだ −感謝をこめて文化功労者に選ばれたことを報告します−」http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak536_540.html
  • 文化功労者というのがどういうものだかよく知らない私。中西先生の仕事がより進み、より認められることを祈っておこう。
  • 中西準子『環境リスク論―技術論からみた政策提言』『環境リスク学―不安の海の羅針盤』『食のリスク学―氾濫する「安全・安心」をよみとく視点』 の三つしか読んでいないんですが、みんな面白いです。おすすめです。(←誰に対して言っているの?)
  • 納得できる基準を、複雑な世界・社会から抉り出す、という姿勢に惚れます。他人が作った基準を考えなしに受け入れるんじゃなくて。
  • もちろん、独りよがりの基準になってはいけないのであって、そこに数学が入ってくるんだと思う。
  • 試行錯誤の経緯がある程度見えているということは大事なのかも。最終的な結果だけを見ていると、考えなくなっちゃう。・・・まあこれは受け売り。『過去を復元する』(ソーバー)の最初の方でアインシュタインの言葉が引用されていて、それが面白かった。あの本も読み中。





で、戻ります。


『過去を復元する』から引用。
p.5

科学において単純性のはたす役割がいまだ未解決の謎である以上,科学者が主張する客観性なるものにも疑いの目を向けるべきでしょう.

  • これに関連していくつか思い出したことを。

http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20080706/p4
『科学の真実』(J.ザイマン)ISBN:9784842703343 のp.242。

科学者は理論に関する自分の好みについて、「一般性」、「特異性」、「単純性」、「倹約性」、「複雑さ」、「厳密さ」、「柔軟さ」、「対称性」、「不調和」、「対話性」、「微細性」、「精確さ」、「範囲」、「有益さ」、あるいは単に「優雅さ」などで表現しようとします。しかし、これらは本質的に発見的-つまり発見への手引き-であって、真に満足できる成果を間違いなく保障する処方箋ではありません。

進化論的な観点からは、研究の手腕とは、可能な観測とアイデアの広大な「研究空間」の中で、見るべきところを知り、見出したものの価値を認めることです、この研究空間における格言、経験に基づく方法、研究戦略、方法論的原則、現象論、その他の非公式な「近道」はあらゆる科学のパラダイムに欠くことのできないものです。

http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20090829/p1

研究を進めていく上での方法論に関して無自覚であることが多いなーって自分自身のこと思う。私の方法論は本当に正しいのか?十分妥当であると言えるのか?についていつも不安に思っている。

学生にアドバイスをするときにとても気をつかう。一見放言ばかり繰り返しているようにも見えなくもない私だけど。説明したことに本当に根拠があったのかな?って自問したりすることだってある。

この本を読んでいて、「この方法にはやっぱり根拠があるんだな」って言えるのがいくつかあって、ちょっと安心した。

あと、研究スタンスそのものにも自信を失いかけてしまうことが頻繁にあるんだけど、やっぱりこれでいいんだなーって思える要素があってちょっと安心した。


こんな感じでいろいろ思い出したり考えながら読んでいます。「日本語版への序文」(3ページくらい)を読んだので、次は序文を読む予定。

今回はやり過ぎた感があるので、次からはもう少しざっくりとした感想になるかも。「この章はこんな感じだったー」みたいな。