『ボルツマンの原子』

三浦俊彦による書評が面白いと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/boltzman.htm




ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け

ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け

面白かったところを抜き出してみる。
p.84

ボルツマンは実は、物理学の核心に迫る結果を出しただけではなく、世界に新しい推論様式をもたらす結果も出した。マクスウェル=ボルツマンの式の正しさという確固たる真理を確立するために、基本的に統計的な計算を用いたのである。しかしこの論証の革命的なところは、当時は本人にも十分に明らかになっていなかった。

p.87

「妻が夫の求めることを理解し、それに対して熱心でなければただの家政婦で、努力をともにする仲間でなければ永続的な愛は存在し得ないように思う。このことを、愛しているという告白と理解してください」

p.88-89の「物理学者と数学」に関して興味深い。

p.94

ヘンリエッテは、以前は科学を勉強しようと奮闘していたし、ボルツマンも妻は主婦ではなく、戦友であるべきだと主張していたが、学問の世界の計画を捨て、キーンツル夫人から料理を習い、一見すると典型的な主婦の生活を始めた。

熱力学や統計力学の発展の歴史が見れます。

p.115

マクスウェルは優美と簡潔性を指針とし、既に知覚できる形のあるアイデアや理論を、精密な数学の形にまとめることを目指していた。対するボルツマンは、とにかくがむしゃらに進み、答えは必ず存在するから、それを見つけるかどうかは時間とかける手間の問題だと確信していた。

マクスウェルとボルツマンの様式の違いは、ある面では、美意識にかかわるが、それぞれの心理の結果である可能性が高い。それぞれに有利な点、不利な点がある。ボルツマンには熱心な信条と結びついた頑固さがあった。マクスウェルには設計あるいは論理の感覚にかけては抜群で、そのおかげで強力で美しくも簡単な電磁気の理論を見つけることができた。しかし、ボルツマン自身の仕事が示しているように、科学はいつも透明で精密とはかぎらない。形成期にあってはとくにそうである。優美は仕立屋や靴職人のものである。ボルツマン流によればこそ、彼は運動説の理論的な棘やもつれをくぐり抜けて前に進みつづけられたのである。

この前後のマクスウェルとボルツマンの違いも興味深い。

物理学の素養があるほうが、やっぱりこの本は楽しめるだろうな。たとえば、下記の文章とかを読んですんなり納得できる人はどれだけいる?

p.125

ある体積の気体中にある原子全体は、任意の時点で、いろいろなエネルギーから成る集合をもっていなければならない。次の瞬間、ほとんどの原子のエネルギーは、衝突のせいで変化してしまい、集合全体は、新しいエネルギー集合を特性とすることになる。個々のエネルギー集合は、全体としての期待の個別的状態をなし、絶えず原子が衝突する結果、気体がしかじかの状態から別の状態へと絶えず写っていく。ボルツマンは、これらの気体の状態が基本的要素となるような確立の微分積分学を組み立てはじめた。


こういう文章を図や式に展開する力を物理学を勉強した人なら持っています。文章だけみて、その字面だけを記憶することは理解したことにはなりません。p125-127は面白いです。

p.128

ボルツマンの一八七七年の結果について、たぶんいちばん特筆すべきことは、そこに物理がほとんどないということだ。Hの計算には、暗黙のうちに、原子が安定した分布、つまり熱平衡に達するまで絶えず突進して衝突しあっているという考え方があった。エントロピーの増大は、この場合、力学から直接でてくることである。しかし、Sの定義においては、そのような原子運動の力学的構図は消えている。ボルツマンは、原子のありうる状態、あるいは配置をだけを考えてエントロピーを式にすることができた。そういう配置がどこから来て、どうなっていくのかについては一切おかまいいなしである。

この前後も面白い。天才の発想の天才たる由縁が書いてある気がする。

p.130あたりは"普遍性"に関わるかも。

このあたりは書き方が丁寧だ。統計力学知らないと面白くもなんともないかもしれないけど。

統計力学とかを誰かに説明したいときがあったら、読み直したいなぁと思います。というか、統計力学を勉強したくなります。私は統計力学に対して、強い苦手意識を持っているのですが・・・。

少し脱線しますが、「理解するとはどういうことか?」というのと同時に「人に理解を求めるにはどうすればいいのか?」というのも私は良く考えます。M2の人の修士論文とかその発表会にいろいろ口を出すことがあったのですが、あの過程で、いろいろなことをまた学べたような気がします。「教わる方より、教える方が勉強する」というのは正しいのかもしれません。


p.132-133

研究者になるわけではないそういう学生にも、自分が語っていることを理解して欲しいと切実に願っていた。

ボルツマンは、科学への入れ込み方が自分と同じだと思った学生とは何時間もつきあい、それで自分の時間をますます使い込んでしまうことになった。

とか面白いな。情熱を感じる。