『ボルツマンの原子』の感想の続き

ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け

ボルツマンの原子―理論物理学の夜明け

p.180

マッハの厳格な哲学では、科学を基本的に、ボルツマンあるいはそれに同調する人々が理解と呼んでいるものではなく、記述の問題にする。

マッハの哲学。この前後の話も興味深い。

p.181

科学においても、真の実在は、直接見えるものではなく、様々な観測結果から整合的に推測されるものである。だからこそボルツマンらの原子論者は、自分のやっていることの価値を信じたのである。遠近法の歪みのない、実在のテーブルを、一個の視点から見ることができないのと同様、原子を直接見ることはできないかもしれない。しかし、テーブルは存在するし、原子も存在するというわけだ。


一流物理学者だから、こんな本が書けるんだろうなぁ、と思いながら読んでいる。歴史と、その現代的な意味をうまく書いている気がする。

p.185-186

ニュートンの法則には確かにある程度の循環が含まれていたが、この法則の成功は、それらが自明のことであるとか、もっと根本的な法則から引き出せるということではなく、それらが実質的に記述しようとする主題を定めているということである。これは弱点ではなく、強みだ。

言い方を換えると、新しい科学の法則というのは、何らかの理論的な前提の上に立たなければならない。ニュートンが示したのは、質量と力が異論の余地なくして独立して定義できるということでははなく、この法則に含まれる質量と力には、普遍的な意味と妥当性があるということである。確かに循環的なところはあるが、そうならざるをえない。ニュートンは、それまでに何もなかったところに理論的な構築物を建てているのだ。

これは科学理論の一面で、それが必然で不可避であることを、マッハは把握できなかった。彼はすべての法則が、何らかの自明で独立した意味を持つ定義の上にのみ立ってほしいと思ったのである。科学が量や特性を考案し、その有効性は定義する系の内部でのみ証明できるということを受け入れようとしないし、受け入れられなかった。

論文とかを読んでいるときに、これってどこまで正しいんだろう?とか思うことがあります。不勉強なのに生意気だと自分でも思いますが。突き詰めて、「物理学とはどうあるべきか?」考えている人がいるとすがすがしく感じます。もちろん、その考えを私が採用するかは別問題ですが。私の科学観は、私が触れるものによって、形成されるものですからね。


しかし問題は、これまでどおり、数学的な確実性があっても、ある事象がどれだけの可能性があるかということだった。


p.201あたりからギッブスが出てきます。これも面白い。アメリカの人だったのですね。物理や化学の知識はある程度私も持っていますが、それが歴史の中でどういう位置づけだったのかまではあんまり知りません。

p.212

「物体の構成に関して仮説を立てようとしないで、合理的な力学の一部門としての統計的探求を続ければ、いちばん深刻な難点を避けられる」

ここらへんの、記述はぞくぞくしますねぇ。・・・えっ、しない?いかにも「物理!」って感じじゃないですか。強い抽象化というか。関係ないものをそぎ落とすというか。そこから出てくる普遍性というか。


p.215

ギッブスもマクスウェルも、自分の最大の創造物からさえ一種の皮肉っぽい距離を置いており、たいそうな哲学的体系にむかう誘惑に対しては、きっと皮肉のセンスが対抗しただろう。実際、マクスウェルはあるとき、友人のテイトにこんなことを書いたことがある。「いろいろな形而上学(メタフィジクス)を読んだが、それはどのみち数学や物理学の原理を知らない、少しばかり感覚についての生理学が混じった程度の議論だと思う。形而上学の価値は、著者の数学と物理学の知識を、事物の名前に発する推論に対する本人の信頼で割ったものに等しい。」後の方の文が、鋭いマクスウェル流の特徴的なからかい方である。その文字通りの意味は、哲学者の自分の思考に自信が大きくなればなるほど、出てくる思考の価値は少なくなるということである。

p.222

ボルツマンにとって、マッハの理論化に反対するお達しに基づくような科学は、いずれ沈滞するのは明らかだった。物理学には、観測結果を列挙し、それらの間の簡単な数学的関係を見出そうとするだけではすまないものがあった。マッハの世界では、科学者が理解するような「説明」の類はなかった。

何かが何かの原因だという、ごく初歩的な概念まで規則違反と言われては、物理学で有益な理論は立てにくいが、マッハはまさにそう言ったのである。彼は物理学から理論化を追放してしまい、相関関係の目録づくり、どの現象が他のどの現象といっしょに生じやすいかの一覧表づくりだけを残したいと思ったのだ。定量的な関係をつけるのは許可される。ある量の熱がある体積の気体に与えられれば、必ず一定程度の膨張が伴うのが見られる。しかし、熱が膨張の原因だと唱えてはならないとマッハは言ったのである

理解するとはどういうことか?は私の好きなトピックの一つです。


p.223

基本的な難点は、たいていの物理学者が哲学には関心がなく、それを必要としていなかったことだ。物理学者はそれについてはあまり知らないかもしれないが、自分が好きでないものは知っている。科学は想像力の要素を必要とし、信念の要素を必要とする。想像力は、誰もそれまでに考えたことのない仮説や理論を立てるところにある。信念は、そうした仮説が、あるところまで使えたりうまくいったるすることがわかれば、その仮説は、大雑把に現実と呼ばれているものと関係があると考えるところにある。


科学の知識(物理に限定してもいいけど)は有機的なつながりを(別に無機的って言ってもいいけど)持っている。何らかの講義を聞いて学んだことは、その一筋を辿っていくことに過ぎない。


『理科が危ない 明日のために』(江沢洋)のp.32で

学問は網の目のようにあちこちがつながっている。そのなかで『筋道を立てて教える』ことは一本の筋をたどることでしかない

と書いてあったことを思い出した。

同所にはこんなことも書いてある。
p.15

物理は、ものの考え方を身につけるのに格好の材料なのである。新しい概念が分析と習熟を要求する。それができたら、問題が明確に立てられる。それを解くための出発点がはっきりしており、客観性をもつ。地につき物についた討論で共通理解ができる。結果が実験できて目にみえる。現実に自分の手で操作して納得することができる。自然は間違いを容赦しないが、たいへん教育的にできている。意外性に富む。また、物理学には長い歴史があり、多くの大思想家に、それも同じ足場に立って触れ、疑問を呈し、批判することができる。考え方のコペルニクス的転回が必要であったというケースを追体験できる。広大な未知に向けて開いている。


物理を学ぶことには意味がある。でも、深く考えなくてもいいことも多くて、いちいち深く問題を考えていたら問題が進展しないということもある。社会に出てからそういう深く考える能力が必要であろうか?深く考える能力があることが、考えすぎてしまうことにつながり、仕事を進める上で弊害になることもあるかもしれない。でもね、何が考えるべき問題で、何を適当に考えるべきかを判断することは、どんな職場でも求められると思う。そして、深く考えるべき問題にぶち当たっときに、深く考える訓練をしてきた者と、していない者のとの差が如実にあらわれるのではないかと思う。

学生にとって、量子物理学なんて意味がないものかもしれない。量子物理学が面白いとしても、自分自身がやっているテーマを卑小と思うかもしれない。でも、そのテーマを真剣に考えることを通して、身につけることができる能力というものは何かを少しは考えて欲しい。というか、それは真剣に考えることを通して得られるものだから、真剣に考えたあとに、少し時間がたってから気がつくものかもしれないけど。


同書のp.4に

ひとはBを習ってAとして身につける

とある。これを学生さんに要求するのは難しいかもしれないけど、学ぶということはそういうことだと思う。

「大学院(大学でもいいけど)にいて、研究(もしくは学問)以外のことを学ぶことだって大切だよ」って聞くこともある。でもね、大学院というのは、それを学ぶことに特化された場所じゃないか。つまり、そこにいて研究を行わないことは、環境を活かすことができていないってことじゃないか。そして、無駄にリソースを食っているってことじゃない?

私は、大学院入試の前に、というか筆記試験の前に、面接をしたほうが良いと思うんだよね。5月くらいとかね。そして、大学院に進む意味とかをきっちりわかってもらった上で進学してもらったほうが良いと思う。そのさいに、一年くらい留年するとかしてもいいと思うし。研究というものが良くわかっていない時点で、進学というのはどうなのかな?って思う。就職に有利って言うのもあるかもしれないけどさ。

・・・考えながら読むと全然進まん。読書に戻ります。

p.224にマッハとボルツマン間の論争の核心についてがある。物理に対する哲学の戦いかも。『部分と全体』(W. ハイゼンベルグ)を読んだときにもそういうのがあったなぁ。私は、物理に潜む哲学が大好きなんだって、今思い出した。強い意志のぶつかりあいを感じます。ここでの「意志」とは瞬間的なものではなくて、「その人のそれまでの人生をかけたもの」です。

p.226

しかしボルツマンはドイツ人の只中にいた。科学に関しては基本的に実際的な性向があったものの、彼の中にも合理主義的なところは十分あって、自分の経験的な方法を
、何らかの理性に基づく哲学的立場で支えたいという欲求も抑えられなかった。

p.226-227のボルツマンの物理学理論がどうあるべきかについても面白い。というか、感動的かも。引用はしないが。ボルツマンがんばれ!って応援してしまうというか。まぁ、作者の書き方が、ボルツマンを肯定的に書いているし、作者の物理学に対する考え方は、現代の物理学者の多くが納得できるというか、共通認識だと思われる。

p.228あたりのボルツマンとマッハの対比の仕方も面白いなぁ。

作者は、マッハの哲学に批判的な文章が多いですが、肯定的なことも言っています。ただ、マッハの言う物理が満たさなければいけない条件というものがきつ過ぎるということを言っている。


p.256、ギッブスの『統計力学原理』の本。「集合体(アンサンブル)」についてなど。

p.257

物理的な系を微視的な要素の配置と考え、その全体的な特性は、統計学と確率論を応用することで得られるというアイデアを持ち込んだのはボルツマンだった。

10章では、もうボルツマンの晩年についてになっています。

11章ではアインシュタインが登場。1905年、脅威の年!
p.271-272

ボルツマンの統計学的な視点に関心を抱いたことで、アインシュタインはその業績で最初の独創的な研究をすることになった。一九〇五年の三年前、アインシュタインは、三つの簡潔な分析を発表した。それらは一体となってギッブスが当時『統計力学』にまとめていた論証を多く行っていた。その研究はボルツマンとギッブスのいいところを組み合わせていた。ギッブスと同じように、アインシュタインは非情の論理の威力にとりつかれており、対象からその根本の基礎を剥き出しにし、不要なものをはぎとって単純な、それゆえに強力な構造にした。しかし、ギッブスとは違い、今度はボルツマンに似て、ほとんど体にしみついた物理学そのものの勘もあって、言わば、数学の中に導いてくれる推論を捉える前から、事物はかくかくの動き方をしなければならないと見通すことができた。

これ以降もアインシュタインのどこがすごいのか?「量子」についてなど面白く書かれています。


p.275のブラウン運動について。

アインシュタインは、原子の速度分布を表す標準的なマクスウェル=ボルツマンの式を用いて、花粉程度の大きさのものを動かせるだけの集団的な衝突の頻度や規模を計算した。その計算は、その衝突の力学的な影響から原子の大きさと数を推測する方法にもなった。

この前で「ゆらぎ」の話もでています。ゆらぎが本質的に重要になってくるわけですね。

p.285あたり、アインシュタインがマッハをこき下ろしてます。あらら。

p.292より後、ダーウィニズムについて。

p.293-294あたり。感動的。直接読むのが良いです。強い意志を感じます。もう一度書くけど、「意志」とは瞬間的なものではなくて、「その人のそれまでの人生をかけたもの」です。




研究者は、日ごろの研究活動(実験、議論、論文を読む、論文を書く、工作する、設計するなどなど)を通じて、心の栄養というか、研究のモチベーションを高めたり維持するものだと思います。でも、まぁ、たまにはドーピングというか、少し変わったところから、直接は関係ないところから、やる気を得たりすることもあるのではないかと思います。




我々は、普段は気がつかないけど、過去の遺産の上に暮らしている。巨人の肩の上にのっている。肩の上にのっていることを忘れている。そして、微小の変化に右往左往する。生きていく上では、そういう微小の変化に機敏になることは仕方がないことかもしれないけど、たまには、歴史の中で、自分たちがどういう位置づけにいるのかを省みるのもいいと思う。


p.301、ボルツマンの墓碑銘は有名すぎるあの式でした。

p.305

ボルツマンの物理学と当時の物理学を描くときには、とくにトマス・クーンの『黒体論と量子の不連続性』を元にしている。ここにはH定理とその派生形についての驚異的に完璧な分析が出ている。

ふーむ。トマス・クーンってどういう人だったのかな?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%B3

物理学でドクターをとったのね。


・・・というわけで、読み終わった。いつもより考えながら読んだので、時間がかかってしまった。面白かった。