大学院教育って何なのだろう?

注意
この記事は2006年9月頃考えたような気がします。少しだけ修正しました。
  • 「訓練されたもの」と「訓練されていないもの」の差異はある程度わかる。
  • 一年間しか研究しないのと、三年間研究するのではまったく異なる、って言うのもわかる。
  • 企業の人たちは、大学院の機能をどう思っているのかな。
  • 教育というか、人材育成のコストをどう考えているのだろう。
  • 研究者という職業は社会にどれだけ必要か。
  • 教育にできることとできないことがあると思う。
  • 「訓練されたもの」の比率が多くなることは望ましいことだとも思うけど、その「訓練されたもの」を育てるコストは見合うものなのだろうか?私はそれに関しては楽観的だから見合うっていいたけど。
  • 餌を欲しがらない雛は、たぶん親鳥に餌を与えてもらえない。そんな雛は野垂れ死ぬだろう。
  • 「教育とはかくあるべき」って大上段に考えても、私にはまともなことが何にも思いつかない。
  • ただ、科学的思考に触れることは嬉しかったり楽しかったりするものだと思う。そういうのを伝えたいとは思う。
  • 大学は職業訓練の場所ではない。実質的にそうであっても理念はそうではないはず。大学は学問をする場だと思う。では学問とは何か?学問の持つ性質とは?学問の価値とは?
  • 大学院に入る前に、3年生くらいの時点で知っておくべきことがあると思う。というより、そういうのは先輩とかから当然仕入れているべき情報か?
  • 能力と意欲を兼ね備えた人材を輩出するシステムというのは可能なのかな?
  • 教育者というのは、どこまで学生に対して干渉するのか?というのをいつも考えているのだろうか。
  • やる気がある人にたいしては、その人の成長を促すように阻害しないように。やる気がない人にたいしては、まぁ最低限の能力が身につく程度には干渉する、という感じだろうか?
  • 最低限の基礎力を持っていることは前提としなければいけないけど、研究は自主性や自由が保障されていなければ、新しいものが出てこない・・・気がする。もちろん、細かい、ほんとうに細かいことまで全部指導してやれば、成果はあがるかもしれない。でも、それは研究者を育てることにつながるのだろうか?大学院における教育の目的って何なのだ。
  • 私自身が現時点で教育に関われることは何だろう?現時点での大学というシステムに従い、そこで精一杯のことをすればいいかな、って思う。でも、そのシステムを変えることができる立場の人たちや変えようとしている人たちはどのようなビジョンを持っているのだろう?その意図が分れば、もう少し気が楽になる気がする。安心できる気がする。
  • 物理ででてくる基礎的な方程式、マクセル方程式とかあるよね。その式はその関係を見出した人が考えた以上の深い意味と応用を含んだものである。そこには無限がつまっている、というと言い過ぎかもしれないけど。
  • システム、または器というものは、ある意図で設計されたとしても、別の効果があるのかもしれない。大学というシステムは今まであって、社会に貢献してきたことは間違いない。もしかしたら、もっと効率のよい組織というのも作れるのかもしれないけど、それをどう作ればいいのかわからないのだから、今のままで試行錯誤しつつ運用するしかないのかなって思う。
  • 大学院重点化ってなんのために行われたのかな。どういうビジョンがあったのだろう?それは成功したのか?政策と評価は一体のものだ。そして政策を作る者は、「政策がうまくいったかどうかの基準は○○を調べれば分ります」と明示する義務があるだろう。評価する側は、その基準を調べると共に、他にもどのような評価基準があるかを考え、調査する必要があるだろう。評価にもコストがかかるが、それは必要経費だと思う。
  • 学部3年生のころ。とあるサークルのとあるイベント開催を手伝ったことがある。準備がいい加減だと思ったけど、概ねうまくいっていたようだ。細かいところに文句をつければいくらでもつけられるけど、あの前日までの準備状況で、よくあそこまで体裁を整えたなって思うのだった。それは運用する側の能力、例えばトラブルに対する柔軟性とかが秀でていたためだろう。私が運用する側の能力を過小評価していたといえるが。うまくいくかはトラブルの度合いによるものであり、事前に準備しておけば避けるのが楽なものは・・・とは思うのだけど。

「理学部の大学院重点化について 理学部長 小林俊一
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/agc/news/05/rigakubu.htmlから引用。

理学部は何十年も以前から大学院重点化を考えてきました。その理由は、表面的には、3・4年生の数よりも大学院生の数の方が多く、教育・研究の活動の比重が大学院の側に偏っているという現状に即した組織に変革しようということにありました。しかし、もっと本質的な動機があります。一つには、理学の内容が急速に充実したために、これを修得したといえるには学部だけでは不足であり、少なくとも修士課程の修了までが必要であるという認識に基づくものです。これは理学についての社会の人材要求が学卒よりも修士修了者にシフトしていることと軌を一にしています。第二には、理学における教育は研究と切りはなしては考えられないということです。つまり、理学では研究の場が教育の場であるという認識です。このことはこれまで大学院については実行されていましたが、当然学部学生にも当てほまることなのです。

  • 上記は良いような気がする。「理学では研究の場が教育の場であるという認識です」とありますが、I尾先生も、似たようなことをいっていたなぁ。大学院が重点化されたからって、学部の教育がいい加減になったりすることはないと思うし。ただ・・・。

しかし議論は、大切なのは変革のきっかけである、まず出口を見つけるべきである、たとえそれが目標と逆方向であってもこの契機を逃すべきではない、との意見が大勢を占めました。とりあえず出口を出てから、行き先に向かってかじ取りをすればよいという考えです。その結果が今回の組織がえです。

(上記引用先と同じ)

  • これに対しては、違和感を感じます。