研究すること

注意
下記は今年の三月くらいに考えた文章です。推敲は後でするかも。

系統樹思考の世界』(三中信宏)28ページ

農水省の研究所というと、研究員はみんな「実学」的な応用研究に邁進しているイメージが、一般にはきっとあるだろうと思います。しかし、実際には、一方で応用主体の研究が進み、他方で基礎的・基盤的な研究もある−真の意味で「懐」が深くないと、たくましい実学を実らせる太い根が張れないのです。

大学の話をしましょうか』(森博嗣)114ページ。

ひとつだけ。最初に言ったように、そもそも研究・教育というのは、採算が取れる事業ではないのです。ただ、将来の社会のために、非常に重要なものです。お金をかける価値はあるでしょう。ですから、法人化されたからといって、独立採算で、自分で金を稼げるような組織になろう、という姿勢は根本的に間違っていると思います、稼げなくても、理念を貫き、やるべきことを地道にやってほしい。それで、もし成り立って行かなくなったら、それはもう消えるしかありません。社会に理解されないときは、消えるのが良いでしょう。

でも、きっと、そうはさせないという良識が社会にはあるはずです。ちゃんと救われるだろうと僕は楽観しています。そういう立場のものなのですよ。大学というのは。採算が取れなくて立ち行かなくなって潰れてしまった、となれば、それはその地域や国がきっと歴史のどこかで責められることになるでしょう。中国の文化大革命のようにね。町に大学がある、国に大学がある、ということが、その町、その国の豊かさであり、良識だからです。

私は、理学の研究者(またはその卵かヒヨコ)だ。理学博士だし。まぁ、最近は、工学関係の仕事も少ししているけど、育ちは理学だ。

高校生のころの「物理をやりたい」という想いとは、まったく異なる考えで研究はしていると思う。でも、それは、物理に対する憧れがなければ、今みたいなことをやっていなかったと思う。自分がやってきたことだから愛着があるというのは避けられない。でも、私が興味を持った分野はやっぱり面白いって思う。

自分でも、私の研究テーマを研究することを社会は許容するだろうか?と思うことがある。でも、それは、最近は私の中で決着はつきつつある。答えは、ここではいわないけど。

学部四年生や、大学院生に理学の価値を体感して欲しいって思う。それには意味がないとか価値がないとか意義がないとか役に立たないなんて言葉を言わせたくない。十分その分野を知った上で、言うのなら良いけど。でも、わからないうちに、適当(悪い意味です)なこと言うなよ、って思う。私だって、狭い分野しか知らないといえば知らないけど。「でも、科学(理学)って言うのはさぁー」といいたくなることがある。

理学部の価値を知っている人が、社会の中である程度の力を持てば、理学部は消えることはないと思う。私は、理学部に消えて欲しくないから、自分自身に力が欲しいし、多くの人に価値を知って欲しいと思う。

芸能やスポーツだって、価値を知る人がいなければ立ち行かないのだし・・・と思うこともある。


でも、知ってもらうにはどうすればいいのだろう?わからない。試行錯誤するしかない気がする。学ぼうと思わないやつに、無理やり詰め込もうとしても、詰め込もうとするほうも、詰め込められるほうも互いに不幸な気がする。