『天才の栄光と挫折-数学者列伝-』(藤原正彦)

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (新潮選書)

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (新潮選書)

ニュートンに関して。優しく、愛のある、品のある文章ですね。ニュートンはこんなことをいっているらしい。

「発見し、解決し、すべてをやり遂げた数学者は、つまらぬ計算屋か労働者。発見したふりしかできない者が発見の功績をかっさらう。素晴らしい世の中じゃないか」

関孝和。名前は知っていたけど、けっこう不遇の人だったのか。当時の日本でこんなに数学が進んでいたとはね。鎖国って多くの人間の可能性を・・・って思う。そんな中でも、少なくない日本人が数学というものを愛好していたというのは面白い。人間は数学をする生き物である!と結論せざる得まい(←なんか変な口調だな)。関孝和の生の台詞が残っていないのが悲しいなぁ。天才というものにはその生を凝縮した言葉を吐いて欲しいものですが。



ガロワ。決闘で若いうちに死んでしまった天才。印象的なところをちょっと引用。

数学に目覚めたガロワは、寝ても覚めても数学を考え続けることになる。教師たちはこう報告している。「数学に対する狂気がこの少年をとりこにしている。学校では時間を浪費し、いたずらに教師を苦しめ、絶えず叱責を受けている」「独創的だが風変わりで議論好き」「我慢できぬほど独創的をよそおい、救い難いほど自惚れている」

ハミルトン。

そして先の光学理論を完成し、それに基づき双軸結晶の屈折光線に関するある現象を予言した。

・・・すごい。

ついでハミルトンは、光学原理を力学理論へと拡張し、特性関数の威力を示した。これは今でもハミルトニアンと呼ばれている。一方ヤコービの仕事と合体した、ハミルトン=ヤコービ方程式は、解析力学の基本方程式となっている。また彼の考え方は量子力学にも取り入れられている。

・・・あー、関係ないことを思い出した。

解析力学と変分原理』(C. ランチョス)

解析力学と変分原理

解析力学と変分原理


の本である。読みてー。すごい今読みたい。東工大大学図書館でB2の時に触れた本。このとき、大学の物理というものに初めて触れた気がした。物理に哲学あり!って感じの本であった。ほとんど理解できなかったし、ほとんど読めなかったけど面白いって思った。

さて、戻りましょう。

ハミルトンはますます酒に溺れながら、数学研究に没頭した。自身の栄光のため、それ以上に大飢饉に苦しむ祖国の栄光のため、彼は奮闘した、彼の死後、書斎からは食べた動物の骨や、食べられないままひからびた肉がいくつも、部屋一杯にうず高く積まれた二百数十冊のノートや書類の間から出てきたという。

・・・。最近ノートをとっていないな。勉強のためのノートをとっていない。間に合わせばかりだ。この年でそんなことじゃ全然駄目だと私は思う。





ソーニャ・コワレフスカヤのところ。

ソーニャはやっと、「数学の神様は自分に払われた犠牲より大きい宝物を決して与えない」という冷酷な掟を了解した。

全ての科学はそういうものかも。

〜夫コワレフスキーの自殺を知らされた。彼女は衝撃で五日間、意識不明に陥っていたが、六日目に目を覚ますと、ベッドの上で数学公式を書き始めたという。

この人の頭の何割が数学だったのかな?



ソーニャの最後の恋人マクシムとの関係。

モスクワ大学法学部の看板教授だった彼は、帝政にとって危険人物という理由で当局により解雇され、外国へ亡命していた。マルクスエンゲルスとも親しく、多分野にわたる研究で天才的な閃きを発揮した彼は、ソーニャの広汎な学術的知識と独創的見解に目を見張った。本質と第二義的なものを瞬時に識別する能力や、論争において相手の論拠の欠陥を即座に指摘する才能は、それまでに出会った傑出した人々と比べても、段違いのものだった。二人は毎日あって、議論に鼻を咲かせた。母国語で、しかもスケールの大きな人物と、存分に語り合うことで、ソーニャは元気を取り戻した。会話に時間をとられながらも、睡眠を削って数学研究に精を出した。

人は人に駆動されてしまうのだと思う。そういうものにはなかなか抗えない。


数学と文学という、一見異質な二つの世界は、ソーニャの心の中で、ごく自然に共存していたように思える。「数学者は詩人でなくてはなりません」「私には数学と文学のどちらの傾向が強いのか終生決められませんでした」と晩年語っている。

そういうのって、別に不思議なことじゃないと思う。最適化が(以下略)。


彼女は彼なしには生きられなかったが、彼に尽くす気が毛頭なかった。彼の方も彼女に従う気が全くなかったし、もし従ったら、彼女にあしらわれ振られたに違いない。

ソーニャにとっては不本意だった。恋人はいつも、自分に対する理解と愛情を、数学と同じレベルの「絶対」で求めていたからである。ソーニャはそれが得られぬ状態に消耗し絶望した。

そういうのを諦められないのかな、とも思うし、諦められないから多大な業績を残すことができたのかもしれない。





ラマヌジャン

後にハーディはこう言った。「これらの公式がインチキだとしたら、一体誰がそれを捏造するだけの想像力をもっているだろうか。この著者は本物に違いない。そんな信じがたい技術を有する泥棒やいかさま師の数よりは、偉大なる数学者の数の方が多いからである。」

天才を見つけるのも天才なのかな。

ハーディが、インドの一介の事務員からの手紙を、精密に検討したのは異例のことである。

そりゃそうでしょうね。私だって、トンデモ物理学者の話なんて聞きたくないし。

プリンストン大学理論物理学者ダイソンは、最近こう言っている。「ラマヌジャンを研究することが重要となってきた。彼の公式は美しいだけでなく、実質と深さを備えていることが分かってきたからだ」

ダイソンですか。『理化学辞典』によると、ダイソンは、

イギリス生れのアメリカの理論物理学者.ケンブリッジ大学で数学を学び,1947年渡米してコーネル大学の大学院でベーテの指導を受ける.1953年以来プリンストンの高級研究所の物理学教授.アメリカ政府やNASA国防省などの嘱託を兼務.朝永‐シュウィンガー‐ファインマンの量子電磁力学のくりこみ理論を数学的に仕上げた(1948)ほか,強磁性統計力学,物質の安定性(1966),可変反射鏡つき望遠鏡,相転移などの領域で独自の数学的問題解法を展開した.さらに安全原子炉の考察,核軍縮問題の研究,地球外文明など,研究は純粋物理学以外にも多岐にわたる.

だそうです。

ラマヌジャンみたいな人がでてくるから、インドは不思議な国、という偏見をもってしまう私でした。


チューリング
人工知能とかの人だと思っていたら、暗号解読とかをしていたのか。こういうので、歴史が動くって面白いな
って思う。

ワイル。
物理に関わる業績が目白押し。哲学者でもあるのかな。

面白いと思ったエピソード。

「そうしたらワイル先生は筆者に向かって『私の見る所では数学者はまず三五歳までである。君も急がなければ』と言われた。いくら急いでも三五歳には戻れない。これは大変なことになったと思っていると、先生もちょっと言い過ぎたと気付かれたらしく、『例外はある。君は例外かもしれない』と付言された」

 フィールズ賞を受けて間もない、数学者として脂の乗っていた小平だが、その誠実無比な人柄から、尊敬する大先生の言葉をそのままとって驚いたのだろう。私には辛辣というより、ユーモアとしか思えない。


ワイルズ
フェルマー予想の証明にこんな紆余曲折があったとは。あと、日本人数学者の業績も深く関わっているのですね。でも、こういう難しい問題に取り組む勇気というのは、すごいと思う。なんか、自分が如何に逃げ腰だったかをちょっと反省。


あとがきのところ。

人間は誰も、栄光や挫折、成功や失敗、得意や失意、優越感や劣等感、につきまとわれる。そしてそれは自らの才能のなさのため、と思いがちである。否。天才こそがこのような両極を痛々しいほどに体験する人々である。凡人の数十倍もの振幅の荒波に翻弄され、苦悩し、苦悶している。

理屈では、そういうものだと思う。でも、なかなか割り切れない。「自己卑下をする暇があったら、なんか面白いことを考えよう」と、他人にいったり、自分に言い聞かせたりするのも、そういうのから逃れられないから。自己嫌悪ループに陥りそうになったときの、回避策とかはあるていどは構築しているので深刻ではないけれど。