『科学の真実』

科学の真実

科学の真実

「6.4 地図としての理論」のところが面白いです。

p.135

哲学者やメタ科学者たちが認めるように、理論とはまるで地図のようなものです。科学理論に関しての一般的な文章は、ほとんどどれも地図に当てはまります。それらは「真実」と考えられるものを表現します。それらは社会的な慣習であり、多くの「事実」を抽象し、分類し、単純化します。それらは機能的であり、熟練した解釈が必要であるなど、その類似性は明らかに鮮明なメタファーをはるかに超えるものです。

したがって、あらゆる地図は理論です。ごく普通の地図を解析すれば、きわめて難解な科学理論のメタ科学的な特徴のほとんどすべてを調べられます。自然主義的な観点からは、ロンドンの地価の地図は、素粒子物理学の「標準模型」とまったく同様にこれらの特徴を示します。もちろん我々には、素粒子物理学の模型よりはロンドンの地価のほうがずっと身近です。しかし、普通の地図を、ごく見慣れた疑いのない理論と考えれば、その有効性が怪しいかもしれない理論についてもかなりのことがわかります。

p.136

したがって、科学者は科学知識を「規則」や「公式」、あるいは「一次元の関係」などという言葉で表現するという伝統にはもはや満足しません。ある「効果」にはその「原因」があるということを述べることは、より一般的な理論地図の上での「道筋」を指摘することに相当します。そのような論述は、それを述べる科学的な背景についての情報、つまり、いかにしてそれについての事実、あるいは理論についての別の論述と結びつけるかというようなことと組み合わせなければ意味がありません。

科学理論は事実や概念のノードが規則、公式、種の類似性、あるいは他の機能的な関係によって様々な次元で結合しているような抽象的なネットワークとして認識されています。厳密に言えば、科学の「ネットワーク。モデル」はその全体としての結合性を強調し、時には誇張するような地図のメタファーの特別な例に過ぎません。それでも、このモデルは科学の仮説の創出、検証、改訂、受容のための重要な意味を持っています。

「科学とは「地図」である」http://d.hatena.ne.jp/sivad/20061226#p1
を思い出しました。


さらに、p.137の「6.5 理論としての地図」のところも面白い。

地図というのは単なるではありません。普通の言葉で絵といえば、ある視点から見た世界の一部を表現したものです、科学的な目的のための理想的な絵は、事象の外形を特定し、他のものと区別をする写真のようなものです。対照的に、地図の基本は特定の視点を持っていないということです。原則として、すべての地点は可能な視点として等しく扱われています。言い換えれば、科学理論は科学的な「事実」と同じように科学のコミュニティーのすべてのメンバーに等しく受容されるために、主観的な要素を完全に排除しなければなりません。

しかし、「特定できないところから見る」という概念は意味がありません。地図というのはある特定の地域を表現していて、相対的な視点についての了解がなければ使えません。標準的な地図作成の方法によれば、地図は、非常に高いところからまっすぐに見下ろして望遠鏡を通して撮った写真、つまり衛星写真のようでなければなりません、このことはあまりに当然なので忘れられていることが多いのですが、科学理論も同様に、数学の理論ほど純粋に抽象的ではないということを思い起こさせます。科学理論が意味があるのは、真実のある面を表現するものとしてある種の人間の知能で感知できるような場合だけです。