その34 「それは、きっと、素敵な時間 3」

25歳未満は読まないでねー。

いつも議論してはコテンパンにやられていた。
議論というものに勝ち負けがあるか、勝ち負けをどう判断するかは難しいところだけど
私の勝率は一割くらいだったと思う。
私と議論することは彼にとっても、
彼の考えの筋道を強化するくらいの価値はあるとも自負していたけれど。

とても同じ年とは思えなかったし、そんな人に巡り会えてとても私は幸せだった。
なんとか相手を負かしてやろうと、いろいろ勉強もしたと思う。



議論に負けることを嬉しそうに回想する彼女。

充実があったのだと思う。


人に駆動される人。
物に駆動される人。
さまざまだけど。

「私」は、長い間、生身の人間ではなくて、事物に駆動されていたように思う。

人に駆動されるってことを、知識としては知っていたけど、体感的に知らなかった気がする。
あくまでも比較の問題ではあるけど。
気がつかないうちに、駆動されていることを否定したいわけではない。

知らなかったことで、得をしたこともある。
知らなかったことで、失ったものもたくさんある。

わかりたかったもの、わかりたくなかったもの。

満足感も、あるし、後悔もある。

そういう想いも含めて私は私。

今、「私」をもっとも駆動する対象は何かな?って自問する。

たぶん議論を通して得た一番のものは、彼の価値感を私が知ることができて、
私の価値観を彼が多く受け入れてくれたことだろう。
自分の価値観を受け入れてもらえなくても知ってもらえるだけで、
人は、というより私はとても安心できたのだ。



彼女が感じていた漠然とした不安。
それはおそらく、「拠所がない」という不安。

今まで、誰も彼女のことをわかってくれる人はいなかった。
いつも異端であると感じていた。
異端であり続けることは、負担なのだと思う。

自らの規範や、拠所を、彼女は身近な人から知る機会がなかった。
自らの能力に見合った「等身大の規範」を得るというのは、簡単ではないのだし。
身近な人に、望ましい規範を見出したとしても、
自身の能力があまりにも足りなければ、そのギャップに苦しむだろう。



私は話すのが下手だ。
周りの人が持っているモデルをちゃんと把握していないことによるものだと思う。
他者の価値観を理解しようとせずに
自分の意見だけを押し付けようなんて思っても駄目なのだから。



他者とコミュニケーションをする機会が少ない分、コミュニケーションに期待してしまう。
密度を求めてしまう。

他者に、自分のことを認めてほしいって思うから、
たくさん学ばなければいけない。
その分、誰かと会話する時間は減る。
でも、相手にわかって欲しいときは、まず、相手を知る必要がある。

それは、面倒なことだ。
でも、もし、本当に、心から、わかって欲しい、って思うのならば、避けては通れないプロセス。