http://ci.nii.ac.jp/naid/110006825822
メモ。
立場が変わってから読むと、また違う味わいがある。
私は溜息を吐いてみた。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
今まで書いてきた感想は、下記URLにあります。
今回で最後にするつもりです。
「付録 博士の就職問題について識者に聞く」に関して。
橋本昌隆氏のコメントが凄い。p.256-257
ポスドク問題は、政策的に大学をどうするか、大学がこれから「どうあるべきか」ということとワンセットで考えないといけないと思います。総合科学技術会議などに顔を出しても、学長クラスの理事は、「金くれ、金くれ」しか言いません。旧帝大の学長レベルでも、それくらいの意識しかありません。
お金を稼ぐには、社会に対して、厳しくないといけません。特に大学は最高学府として、研究と教育と社会貢献(産学連携)を この3つに対してこれをやりました、こういう実績が出ました、と社会に対してきちんと説明できないと、お金の話などできないはず。それが問題だと気がついていない。
「あとがき」に関して。
全体を読み終えて、派生していろいろ思ったことを。
大学・研究関係で、私が面白いと思う本を載せときます。
『大学の話をしましょうか―最高学府のデバイスとポテンシャル』(森博嗣)
大学の話をしましょうか―最高学府のデバイスとポテンシャル (中公新書ラクレ)
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
http://d.hatena.ne.jp/sib1977/20101220/p1 の続き。
書評と言うより感想。感想と言うより、インプレッションの羅列。
「第5章 博士が変える未来」について。
p.236
日本にもAAASのような分野横断的な科学者の自発的なNPOが必要ではないか。
p.241
博士やポスドクはどういう力を持っているのか、放っておくと日本がどうなるのか、それを知ってもなお、科学などいらないと言うのなら、あきらめるしかない。
けれど、科学をどうするかを決める前に、科学の現状を知って欲しいという思いでこの本を書いた。多くの人達は、博士やポスドクの実態を知らない。知らないで意志決定はできないからだ。高学歴ワーキングプアと自己責任。何にも役立っていないという先入観。そんなあいまいなもので科学の未来をきめてもいいのか。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
「第4章 博士は使わないと損」に関して思ったこと。
p.171
コミュニケーション能力を研究者の必須能力として求めてはいけないのだ。
p.181「博士+Xで生きよう」という話が出てくる。
p.185
ここで「博士+X」という生き方を提案したい。
これはNPOの仲間だった山本伸さんが言っていたことなのだが、博士号というのは、他の何かと組み合わせることによっていきるものなのだという。
たとえば、科学に強い弁護士、研究歴のある投資家といったように、何かと組み合わせることによって、他にはない強みになる。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
「「第3章 博士が使えない」なんて誰が言った?」に関して考えたりしたこと。
「博士問題への厳しい意見」としてこんなのがあるらしい。
- 博士は優秀じゃない
- 博士のマインドが問題だ
- 自己責任だ
- 外国にいけばよい
- もっと困っている人がいる
- 博士なんか減らしてしまえ
p.146
苦しんでいる人の前で、あなたたちより私たちを優先させるべき、と言わなければならない。未来のためにお金を使いますと。そしてその心を割かれるような気持ちを抱いて研究しなければならない。
p.157
これでは、才能を活かす機会を得るのも難しい。コミュニケーション能力がない、頭が固い、視野が狭いといった理由が言われるが、それが言い訳なのは明らかだ。企業理博士を雇えと旗振っている文部科学省や経済産業省自身は、どうして博士やポスドクの採用に積極的ではないのかを考えればよい。官公庁だって年功序列だ。
p.157
科学の世界だけかわっても、社会全体が流動化しなければ、問題が解決しないのだ。科学会だけポスドク、非正規雇用にしても、ほかがそうなっていないから、行き場がなくなってしまうのは当然だ。
博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)
書評と言うより感想。感想と言うより、インプレッションの羅列。
「第2章 博士はこうして余った」を読んで思ったこと。
p.84
1993年から2000年までの9年間に大学院生の数が倍以上になったことは間違いないのだが、
p.90
OD問題は1980年代前半には3500人を超え、
p.101-102 大学院重点化について。
東大では、今までは学部所属だった教員を、大学院所属に移すことにした。教員1人あたりの学生定員が大学院の教員の方が多いので、人数に見合ったお金が入るからだ。
そして、助手より教授、助教授のほうが、国から研究成果にかかわらずもらえるお金である基盤校費の額が大きいため、助手の定員が減らされ、助教授や教授が増やされた。これにより、基盤校費の増加と大学院生の増加を同時に達成することができた。これは「アップシフト」と呼ばれた。
p.107 余ると予想された、博士課程の定員を減らせなかった理由などが書いてある。
一度増やした定員を減らすことが認められていなかったのは大きい。
また、文部科学省は「定員充足率」つまり、定員に見合う入学者がいることを評価の対象としてきた。定員が減れば、国から大学に入る予算が減らされると言った罰も使いながら。大学教員も、博士の就職難を知っていながら、利用したのだ。利用せざるを得なかったのかもしれない。
p.110
あるシンポジウムの場で、同席した著名な大学教授が、最近の大学院生はレベルが低いという発言をしたとき、思わず反論してしまった。「あなたたちに責任はないんですか?」と。
自分達がトレーニングした博士が、社会の中で低い評価を得ていることに、どうして憤らないのか。博士を売り込まないのか。博士の声を代弁しないのか。能力が低いというのなら、高めようとしないのか。博士と話し合わないのか。もう大学院博士課程は、科学者になる人だけを養成する機関じゃない。むしろ社会に出る方が多数派だ。なのに大学関係者の意識は変わっていない。