2000年1月頃(7年以上前!)に作った文章を少しだけ修正したものです。年齢制限なし。
二人の人が川の岸を散歩していた。
A:はやが水の中で悠々と遊んでいるが、魚は楽しいのだろうね。
B:きみは魚でもないのに、魚の楽しみなどどうしてわかる。
A:きみはわたしじゃないのに、わたしがどうして魚の楽しみを知らないなど、どうしてわかる。
B:わたしはきみではない。だからもちろんきみのことはわからないよ。しかし、きみはもちろん魚ではない。だから、きみが魚の楽しみを知らないのは確かだろう。
A:話をもとへ戻しましょう。きみは魚の楽しみなぞわかるものかといったのはわたしが知っていることを知って、わたしに聞いたのだ。わたしは川のほとりに来てわかったのだ。
『老子 荘子 列氏 孫子 呉子(中国古典文学大系4)』(平凡社)の中の「荘子 秋水第十七」から文章を引用。固有名詞は普通名詞にあらためてあります。ほかにもちょこちょこ文章をいじっています。
Rb:今回はなんですか。 Sw:古典に親しもう。 Rb:なんか裏がありそうですね。 Sw:残念ながらない。さて、この文章はどう思う? Rb:落ちがわからないのですけど。 Sw:やっぱりね。実はわたしもわからない。最後のAの台詞がなければ まだまとまりがつくんだけど、最後の台詞でなにか煙に巻かれてしまうんだ。 Rb:会話としては最初のA、B、Aまでで止めた方が面白いと思いますけど。 この場合、あんまり一つの台詞が長くなるとおもしろくなくなってしまいます。 蛇足という感じがします。 Sw:まあ、無理矢理こういうのから教訓とかを導き出そうとしない方がよいだろうね。 Rb:こういう文章を取り上げたページ製作者の意図は? Sw:「荘子」という本の中身は小さなお話、説話といってもいいかも知れないが、 たくさん載っている。 例えば胡蝶の夢とか朝三暮四、無用の用、混沌の死、命が長ければ恥が多し(←うろ覚え)、 などが有名どころかな。 Rb:けっこうありますね。 Sw:そういう説話とういうのを、たまに読むのもなかなかおもしろいということを 主張したいようだ。さて、、誰でも歴史で習っているように中国の歴史の中で儒教と いうのが大きな役割をしてきたのは知っていると思う。 Rb:孔子とか孟子とかの話題になるのですか? Sw:いやいや、そうではない。例えばこの荘子にしても、孔子やその他の儒教の中で聖人 といわれる人とかが、つまらない考えをしているというふうに書いたりしている。 もちろん違う主張をしているのだから当然なんだけど。 それは儒教を否定することによって自分たちを主張することになる。 この否定することによる主張という形が、儒教というのが中国でどれだけ重要な位置を 占めてきたかを物語るものとなるだろうね。 Rb:悪魔を信じる人がそれに対する神を憎まなければいけないように? Sw:それは拡張としてはそんなにずれていないけど、少し誤解を招くかも。 まあ、儒教は宗教か、道教は宗教かと言われると困るんだけど、定義の 仕方では十分宗教性を持っていると思う。しかし今回はここらへんでおわり。 Rb:なんか尻切れとんぼ、竜頭蛇尾ですね。 Sw:竜頭のつもりもないけど、これ以上増えてもさらに混乱するだけだし。 それに引用文もよくわからない文だからそれに付随した文章もわけが わからなくてもちょうどよいだろう。 Rb:そこまで開き直らなくても…。結局雑文で終わってしまいましたね。