「書くことをまた考える2」 (『にびねこらむ』 No. 21)

「書くことをまた考える1」 (『にびねこらむ』 No. 20) の続き。

(前回の続き)
 書くには、脳のある部分を使っていて、書き始めると活性化して何かをどんどん出力する。スクリプト生成機能と言う言葉を何回か書いたことがある。嫌なことがあっても、これが活性化してしまうことがあって、それはそれで面倒である。スクリプト生成機能は、できれば楽しいことに使いたいものだ。最初の方の、『にびねこらむ』にもスクリプト生成機能の暴走について書いてあってちょっと懐かしい。
 スクリプト生成機能は、気になっていることや、ある種の心の傷のようなものに触れると活性化しやすい気がする。旧Twitter(現X)などは、雑多な話題が溢れており、自分の興味関心や古い心の傷にたやすく触れてくる。それで、我慢できずに、文章を書いて、投稿してしまうと、さらに関連情報がお勧めされるようになったり、誰かからのレスポンスがあって、脳が活性化され、さらに投稿してしまう。悪循環とういうか、正のフィードバックが働き、今の自分がリソースをつぎ込むべきではないようなことを、脳が重要なことだと勘違いして、頑張って考えてしまう。夜寝る前に、最後の投稿のつもりでつぶやいた文章にメンションがあり、なんだか複数人が盛り上がってしまって、ずるずると眠れなくなるようなことも、過去に何回もあった。
 楽しいことで盛り上がるのは良いけど、ネガティブなことで頭が活性化してしまうのは危険だ。配偶者の人がいると、強制的にこのフィードバックを止める働きがあり、本当に助かっている。世の中には考えてもどうしようもないことがあるし、本当に大事なら腰を据えて基礎から学んだり、活動した方が近道ということはある。真偽不明なゴミ情報をいくらため込んでも、正しい道にはつながらないし、大きな間違いを犯してしまうだろう。
 自分の困った性質として、比較的近しいと感じていた人の考えが、わたしとだいぶ異なると気が付いたときに、ショックを受けてしまうことだと思う。他人は他人で、それなりの信頼のおける情報や、しっかりとした思考力に基づいて意見を述べている。他人を尊重し、自分は自分で、必要に応じて新しく学び、考えをバージョンアップさせていけば良いだけなのだ。誰かを安易に馬鹿にしている時、たぶんわたしは成長への道を拒んでいるのだと思う。

 

(次回更新は2024年12月9日予定)